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静岡県掛川市

高天神城

2013年12月30日

高天神城全景

高天神城想像図


追手門

元亀2年3月
武田信玄2万5千騎を率いて来攻、城門を襲ったが難攻不落と見て包囲を解いて退却した。
天正2年5月
武田勝頼2万騎を以って来攻包囲猛攻、6月18日武田勢内藤昌豊、山県昌景の精兵城門に突入、城兵必死の防戦、大石久未、川田真勝以下城兵死傷75名、武田勢死傷253名に及んだ。
天正8年10月
徳川家康1万騎を以って当城包囲猛攻、23日本田忠勝城門に迫ったが部下袴田源左ヱ門城兵と戦い討死した。
天正9年3月22日
夜半城兵総突出に際し、徳川方武将松平康忠城門を破って突入し、追手門櫓門を焼き落した。
(看板資料より)


三の丸

城内の武将が宿営した所であるが、元亀二年より天正二年にかけて、武田勢が来攻当時、小笠原与左衛門清有が三の丸の大将として、城兵二百五十余騎を従えて守備した。別名、与左衛門平ともいう。
(看板資料より)


御前曲輪跡


本丸跡

元亀2年3月
武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠2千騎を以って籠城、本丸には軍監大河内政局、武者奉行公渥美勝吉以下5百騎と遊軍170騎が詰めた。
天正2年5月
武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦、7月2日休戦、9日開城。城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去。武田方武将横田尹松城番として1千騎を率いて入城した。
天正7年8月
城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として1千騎を率いて入城した。
天正9年3月
徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢に瀕し22日夜半大将岡部真幸、軍監江間直盛以下残兵8百、二手に分かれて城外に総突し檄斗全滅した。23日家康検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。城郭焼滅廃成となる。
(看板資料より)


大河内政局石窟

大河内幽閉の石風呂(石窟)
天正2年6月
武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず武田方に降り城兵東西に離散退去したが軍監大河内源三郎政局独り留まり勝頼の命に服さず勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松政局の義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月
徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際牢内の政局を救出した。足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。
(看板資料より)


井戸曲輪跡

かな井戸


二の丸 堂の尾曲輪址

二の丸 堂の尾曲輪址
天正2年5月、武田勝頼来攻、包囲、6月28日猛撃、二の丸主将本間八郎氏清、部下300騎を率いて此所の物見櫓に上り、城兵を指揮した。同日卯の刻(朝6時)、武田方穴山梅雪の部下西島七郎右ヱ門、朝日に輝く氏清の武装を狙い、鉄砲を撃った。氏清、首の近くを撃たれ、本丸に運ばれ介抱を受けるも10時、行年28歳を以って絶命した。弟、丸尾修理亮義清兄に代り櫓にて指揮中、同日午の刻、狙撃により胸部を撃たれ即死した。行年26歳であった。墓碑は後裔本間惣兵衛が元文2(1737)年に建てたものである。
(看板資料より)

二の丸


本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清 戦死の址

天正2年6月、堂の尾曲輪を守備していた本間・丸尾兄弟は、武田軍の銃弾に当たり討死した。


掘切跡

隍堀跡

高天神社

切割


甚五郎抜け道

天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方約千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言う。
(看板資料より)


馬場平


三日月井戸

天正2年7月より籠城した武田勢は飲料水に恵まれる様にと水乞いの祈願をこめて、井戸を造った。今も極わずか乍らも岸壁からしみ出る垂れ水が絶えることが無い。
(看板資料より)


搦手門址

城の裏門に当り、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。元亀から天正2年にかけて、渡辺金太照が大将として城兵210余騎を率いて守備した所である。
(看板資料より)


岡部・板倉の碑


渡辺池



2007年11月04日

高天神城には当初の予定では寄る予定ではなかったのですが、近くを通ることが分かったのと以前きた時はもうずいぶん前のことだったので近況の確認も含めて立ち寄ることにしました。さすがに規模が大きくて一通り見て回るのにかなりの時間を要してしまい結果的には予定していた見学地のうち1ヶ所が時間切れで行かれなくなってしまいました。しかし見学地を1つ犠牲にしても後悔しないほど今回立ち寄って良かったと思いました。
今回も搦手門側から登りましたが、高天神社境内略図及び高天神保健休養林案内図を見てまず最初に全体を確認しました。
搦め手門側から登ると三日月井戸を経て鐘曲輪に出て、向かって右側に井戸曲輪、西の丸の高天神社、その奥に馬場平があり、また井戸曲輪から高天神社の階段の右側に進んでいくと二の丸や堂の尾曲輪、本間・丸尾兄弟墓碑などがあります。また三日月井戸から鐘曲輪に出て左側には的場曲輪を経て、本丸、御前曲輪、三の丸、そして本丸の下には大河内政局石窟があり、そのまま大手門の方まで降りて行くことができるとのことでした。この中で高天神社の奥にある馬場平と見張所址には多分前回は行っていなかったと思います。また城の近くにある林の谷池の近くに「岡部・板倉の碑」と書かれたものもありましたがこれも前回は見落としていました。それから案内板には大東町ではなく掛川市と書かれていました。

搦手門址

城の裏門に当り、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。元亀から天正2年にかけて、渡辺金太照が大将として城兵210余騎を率いて守備した所である。
(看板資料より)

歩き始めてすぐ搦手門址がありますが、ここに搦手門の説明が書かれていました。多分前回来た時と同じことが書かれていたと思いますが、今回は知っている人の名前が書かれていました。徳川方の渡辺金太照がこの搦手門を守備していたとのことでした。前回来たときは彼がどういう人なのか知らなかったので多分読み飛ばして行ってしまったのだと思います。渡辺金太照は徳川の武将として姉川の合戦で大活躍し、織田信長からも感状をもらったほどの剛の者で武田軍の高天神城攻撃の際もこの城に籠もってよく城を守りました。しかし武田信玄の死後、武田勝頼による攻撃で遂に落城し城主小笠原長忠が降伏する中、配下の部下達は他の徳川方の城に退却する者や投降する者などいろいろな決断をして高天神城を出て行きました。そんな中、渡辺金太照は武田軍に投降する道を選んだのです。そしてこの時から8年後の天正10年、仁科五郎盛信とともに高遠城に籠もり、織田方の攻撃の中鬼神の如く奮戦の後討死するのです。渡辺金太照が高天神城にいたことは知っていたのですが、具体的に搦手門の守備をしていたということは今回初めて知りました。
三郎山(渡辺金太夫祠)

断崖絶壁

搦手門をすぎると比較的なだらかな登りの砂利道を進んでいきますが、向かって右側は井戸曲輪や堂の尾曲輪の真下に当たり、到底登ることなどできない断崖絶壁を見ることができ、難攻不落の高天神城を実感することができます。

三日月井戸

天正2年7月より籠城した武田勢は飲料水に恵まれる様にと水乞いの祈願をこめて、井戸を造った。今も極わずか乍らも岸壁からしみ出る垂れ水が絶えることが無い。
(看板資料より)

その後は階段を登って行き、鐘曲輪の少し手前の所に三日月井戸があります。確かに三日月型をした池のようなものがあり、金魚みたいなものがいました。三日月堀といえば武田流を連想させますが三日月井戸という井戸はここ以外で聞いたことはありません。

鐘曲輪

そして階段を登りきると平らなところに出ますがここが鐘曲輪になるのだと思います。ここには高天神城跡略図や、高天神城攻防城砦図、そして高天神城略年表などが書かれている大きな案内板があります。今回は最終的に大手門にの方に降りていくことにしていたのでまずは高天神社の方に行ってみることにしました。

かな井戸

鐘曲輪からなだらかな階段を少し登るとかな井戸がある井戸曲輪があります。いつも思うのですが山城というのはこんなところでも井戸があって水が湧き出しているのですがすごいですね。かな井戸の傍らには、高天神城合戦将士英魂之碑と、尾白稲荷大神がありました。かな井戸から見ると左から、高天神社への階段、高天神城合戦将士英魂之碑、二の丸への道、尾白稲荷大神という感じですが、まずは高天神社に行ってみることにして階段を登りました。

高天神城合戦将士英魂之碑

尾白稲荷大神

高天神社

高天神社への階段を登りましたが、ハエがたくさんいました。特に実害はありませんでしたが踏んでしまうのではないかと思うほどでした。途中で左側に社務所があって大きな木もありました。木のところには西の丸跡と書かれた白い棒杭がありました。また社務所の左側には堀切と書かれた棒杭があり、この社務所の裏尾根伝いと書かれていました。社務所の裏に行ってみようかと思いましたが行きにくそうだったので断念して更に階段を登りました。

切割

尾根伝いに攻め寄せる敵兵を防ぐ為につくったもの。
(看板資料より)

馬場平

前回来たときは高天神社の本殿までしか来ていませんでした。本殿の左側奥の方に行ってみると道が続いていて、切割と書かれた看板を経て馬場平に出ることができました。ここには大きな木がないので見通しが良かったです。麓の案内板には馬場平には展望台とも書かれていましたが納得できました。そして馬場平の一番奥には甚五郎抜け道の立派な案内板がありました。こんな案内板は初めて見るのでやっぱり前回は馬場平には来ていないことが再確認できました。

甚五郎抜け道

天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方約千米n尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言う。
(看板資料より)


二の丸

再び井戸曲輪まで戻ってきてから今度は二の丸方向に行ってみました。前回来たときはこの道は通行止めだったような気がしたのでここから先も多分今回が始めてかなと思いながら行ってみましたが二の丸や本間・丸尾兄弟の墓碑などは見覚えがあったのでこっちには以前も来ていたことがわかりました。高天神城は全体的にそうななのですが徳川方の立場から敵である武田のことを想定した案内内容になっています。本間・丸尾兄弟も徳川方の武将であり、今回ここに来るまで私も彼らのことは知りませんでしたが、武田勝頼に攻められた際に戦死した人たちであるとのことでした。更に下っていくと規模の大きな空堀跡もありました。

袖曲輪跡

本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清
戦死の址

隍堀跡

堂の尾曲輪址

二の丸 堂の尾曲輪址
天正2年5月、武田勝頼来攻、包囲、6月28日猛撃、二の丸主将本間八郎氏清、部下300騎を率いて此所の物見櫓に上り、城兵を指揮した。同日卯の刻(朝6時)、武田方穴山梅雪の部下西島七郎右ヱ門、朝日に輝く氏清の武装を狙い、鉄砲を撃った。氏清、首の近くを撃たれ、本丸に運ばれ介抱を受けるも10時、行年28歳を以って絶命した。弟、丸尾修理亮義清兄に代り櫓にて指揮中、同日午の刻、狙撃により胸部を撃たれ即死した。行年26歳であった。墓碑は後裔本間惣兵衛が元文2(1737)年に建てたものである。
(看板資料より)


大河内政局石窟

大河内幽閉の石風呂(石窟)
天正2年6月
武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず武田方に降り城兵東西に離散退去したが軍監大河内源三郎政局独り留まり勝頼の命に服さず勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松政局の義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月
徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際牢内の政局を救出した。足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。
(看板資料より)

鐘曲輪に戻ってきて、今度は本丸の方へ向かいました。途中的場曲輪を経て本丸への道が続いていますが、途中で「大河内政局石牢道入口」という白い棒杭があったので先にそちらに行きました。ここには以前も着たことがありますが今回は牢の中をのぞいてみました。そんなに広いところではなくもしここに8年もの間幽閉されていたのだとしたら、すごいことですね。

本丸址

元亀2年3月
武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠2千騎を以って籠城、本丸には軍監大河内政局、武者奉行公渥美勝吉以下5百騎と遊軍170騎が詰めた。
天正2年5月
武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦、7月2日休戦、9日開城。城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去。武田方武将横田尹松城番として1千騎を率いて入城した。
天正7年8月
城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として1千騎を率いて入城した。
天正9年3月
徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢に瀕し22日夜半大将岡部真幸、軍監江間直盛以下残兵8百、二手に分かれて城外に総突し檄斗全滅した。23日家康検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。城郭焼滅廃成となる。
(看板資料より)

そして本丸に到着です。本丸はさすがに広く、周辺には土塁跡が残っていました。本丸の先には御前曲輪があってここには顔を出して写真撮影するものがありました。以前もあったと思いますがちゃんと管理されているようできれいでした。前期は誰の姿で写真が取れるのかさえちゃんと見ていませんでしたが、なんと小笠原長忠とその妻でした。てっきり武田勝頼だったかなくらいにしか思っていませんでした。

元天神社

本丸と御前曲輪の間には元天神社という神社がありました。元天神社の鳥居の所から下り道があり、ちょうど登ってきた人にこの道を降りていくとどこに行くのか聞いてみたら大手門に行かれるとのことでしたのでこの道を下っていきました。

三の丸

城内の武将が宿営した所であるが、元亀2年より天正2年にかけて、武田勢が来攻当時、小笠原与左衛門清有が三の丸の大将として、城兵250騎を従えて守備した。別名、与左衛門平とも言う。
(看板資料より)

大手門への道を下っていくと途中で三の丸へ出られる道がありそちらに行ってみました。屋根付の休憩所があって三の丸跡と書かれた白い棒杭と、休憩所の中には三の丸に関する説明が書かれた案内板もありました。

到着櫓跡

更に下っていくと到着櫓跡を経て追手門(大手門)跡にたどり着きました。ここには大きな木があって、町指定天然記念物高天神追手門跡スギと書かれていました。大手門からは少し歩くとすぐに南口駐車場に出ることができました。そんなに大勢の人が来ていたわけではありませんが、途切れることなく人とすれ違いながら城内の遊歩道を散策しました。

追手門(大手門ノ址)

元亀2年3月
武田信玄2万5千騎を率いて来攻、城門を襲ったが難攻不落と見て包囲を解いて退却した。
天正2年5月
武田勝頼2万騎を以って来攻包囲猛攻、6月18日武田勢内藤昌豊、山県昌景の精兵城門に突入、城兵必死の防戦、大石久未、川田真勝以下城兵死傷75名、武田勢死傷253名に及んだ。
天正8年10月
徳川家康1万騎を以って当城包囲猛攻、23日本田忠勝城門に迫ったが部下袴田源左ヱ門城兵と戦い討死した。
天正9年3月22日
夜半城兵総突出に際し、徳川方武将松平康忠城門を破って突入し、追手門櫓門を焼き落した。
(看板資料より)

高天神追手門跡スギ


岡部・板倉の碑

林の谷池の方に岡部・板倉の碑というものがあるとのことでしたので寄ってみることにしました。石碑の周辺は雑草が生い茂っていて中に入って行くのが大変でした。向って右側の石碑には岡部丹波守討死碑と書かれており、左側には板倉某の墓と書かれていました。右側の岡部丹波は最後の高天神城主である岡部元信のことだと思いますが、左側の板倉某については不明です。武田勝頼からの援軍もないまま敵に降ることなく最後は城から突撃して討死したとのことです。

 



2001年08月10日

世間ではお盆休みが始まりテレビの渋滞情報によると東名高速は大和トンネル付近で渋滞中とのことでしたがコック長に場所を確認したら厚木インターより東であることが分かったのでとりあえず出かけることにしました。午前11時に出発という今までに無いスロースタートとなってしまいましたが、今回の目的地は高天神城。あとは現地でカーナビで城跡を検索して近くの城跡を見学してきました。


高天神城址遠望

午前11時に出発して東名高速を西に進み菊川I.Cでおりる予定だったのでそのすぐ手前の牧の原S.Aで昼食を食べてから山登りをしようと思っていたのですが、S.Aへの入口が登坂車線になっていたせいもあって入ることがでないまま、高天神城に着いてしまいました。おなかがすいていたのですが時間もなかったのでそのまま見学を開始してしまいました。
着いた場所は城の裏側である搦手側でした。駐車場も広かったので車はいっぱい止められるでしょう。ちなみに私以外には誰もいませんでした。


搦手門

城の裏門に当り、城南から出てくる者を搦め捕る意味からこの名がある。元亀から天正二年にかけて、渡辺金太照が大将として城兵二百十余騎を率いて守備した所である。
(看板資料より)


三日月井戸

天正二年七月より篭城した武田勢は飲料水に恵まれるようにと水乞いの祈願をこめて、井戸を造った。今も極わずかながらも岸壁からしみ出る垂れ水が絶えることが無い。
(看板資料より)


大河内幽閉の石風呂(石窟)

天正2年6月武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず武田方に降り城兵東西に離散退去したが軍監大河内源三郎政局独り留まり勝頼の命に服さず勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松政局の義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際牢内の政局を救出した。足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。
(看板資料より)


本丸址

元亀2年3月武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以って篭城、本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百騎と遊軍百七十騎が詰めた。
天正2年5月武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦7月2日休戦9日開城、城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去、武田方武将横田尹松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。
天正7年8月城兵交代、武田方猛将岡部丹波守元信城代として一千騎を率いて入城した。
天正9年3月徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢に瀕し22日夜半大将岡部元信、軍監江間直盛以下残兵八百、二手に分かれて城外に総突し激斗全滅した。23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。
城郭焼滅廃城となる。
(看板資料より)


三の丸

城内の武将が宿営した所であるが、元亀二年より天正二年にかけて、武田勢が来攻当時、小笠原与左衛門清有が三の丸の大将として、城兵二百五十余騎を従えて守備した。別名、与左衛門平ともいう。
(看板資料より)


本丸から三の丸へ行く途中からの景色

御前曲輪


二の丸 堂の尾曲輪址

  天正2年5月、武田勝頼来攻、包囲、6月28日猛撃、二の丸主将本間八郎三郎氏清、部下300騎を率いて此所の物見櫓に上り、城兵を指揮した。同日卯の刻(朝6時)武田方穴山梅雪の部下西島七郎右ェ門、朝日に輝く氏清の武装を狙い、鉄砲を撃った。氏清、首の近くを撃たれ本丸に運ばれ介抱を受けるも10時、行年28歳を以って絶命した。弟、丸尾修理亮義清、兄に代わり櫓にて指揮中、同日午の刻、狙撃により胸部を撃たれ即死した。行年26歳であった。墓碑は後裔本間惣兵衛が元文2年(1737年)に建てたものである。(看板資料より)


獅子ヶ鼻砦
能ヶ坂砦
三井山砦
火ヶ峰砦
中村城山砦
小笠山砦
横須賀城
馬伏塚城
相良城
滝堺新城

 

 
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