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山梨県甲州市

菅田天神社

2013年09月21日

塩山市上於曽に鎮座し、祭神は本殿素盞鳴尊及び五男三女神、相殿に菅原道真を祭祀する。社記によると承和9(842)年国司藤原伊勢雄が勅を奉し、甲斐少目飯高浜成に命じて創立したと伝える。寛弘元(1004)年、菅原道真を相殿に祭り、これ以来菅田天神社と称したという。
新羅三郎義光以来甲斐源氏の鎮守とされ社の位置が、府中(甲斐府中)の鬼門にあたるので武田家は重宝楯無鎧を、この宮に預け於曽氏にその保管をさせ大事あるごとに出納を命じたという。
またこの楯無鎧は承久年間武田信光が社殿を造営し陣中の守護たる神器楯無鎧を社殿に納め置き、同族である於曽氏に守護させたともいう。「小桜韋威鎧」として国宝に指定され現存する。
(看板資料より)



2006年03月12日

塩山市上於曽に鎮座し、祭神は本殿素盞鳴尊及び五男三女神、相殿菅原道真を祭祀する。社記によると承和9(842)年国司藤原伊勢雄が勅を奉し、甲斐少目飯高浜成に命じて創立したと伝える。寛弘元(1004)年、菅原道真を相殿に祭り、これ以来菅田天神社と称したという。
新羅三郎義光以来甲斐源氏の鎮守とされ社の位置が、府中(甲斐府中)の鬼門にあたるので武田家は重宝楯無鎧を、この宮に預け於曽氏にその保管をさせ大事あるごとに出納を命じたという。
この楯無鎧は承久年間武田信光が社殿を造営し陣中の守護たる神器を本殿に納め置き同族である於曽氏に守護させたと伝えている。


国宝
小桜韋威鎧兜大袖付
平安時代
胴高さ胴板から摺袖まで65.1センチ
兜鉢高さ10センチ、大袖長42.4センチ
平丸黒漆塗革縁皮一枚交わり
威毛小桜藍染韋包
金物鍍金花菱浜小刻透座地共四重
兜鉄黒漆十枚張八間星鉢
大袖六段


今回、約7年ぶりに菅田天神社を訪れました。7年前に訪れた時はあまり意識せずに歩き回っていたのか、今回はじめて見るものばかりのように感じました。前回と同様、私以外に誰もいなくて静かでした。菅原道真公が祀られているとのことであり、合格祈願の願い事が書かれた絵馬がたくさんありました。今回はじめて知りましたが、楯無の鎧の正式名称は、「小桜韋威鎧兜大袖付(こざくらがわおどしよろいかぶとおおそでつき)」というのですね。


座牛像

祭神菅原道真公(天神様)の眷属(お使い)は牛であります。道真公は筑紫(福岡県)で荒牛を鎮めて以来この牛は道真公を慕い道真公が亡くなり亡がらを墓までこの牛に背負わせていったところ途中で悲しみのあまり座り込んでしまいました。そこでその場所を墓としそこが天満宮になったといいます。道真公は動作は鈍いが辛抱強く根気のよい牛を親しんでおりました。
(看板資料より)


菅田天神社石灯篭



1999年09月05日

ここには、楯無という鎧が保存されていることで有名。楯無の鎧は源頼義から新羅三郎義光に伝えられその後甲斐源氏の宗家である武田家に代々伝わったという鎧である。風林火山の旗や諏訪神号旗が県や市が指定した文化財であるのに対して、この楯無の鎧は国宝に指定されているのだ。しかしこの日は誰もいなかったので見ることができなかった。突然行っても見せてくれないものらしい。
雲峰寺の住職は、楯無の鎧ももともとは雲峰寺にあったものが塩山市内のこの菅田天神社に持ってこられたと言っていたが、いろいろ調べると信玄が鬼門鎮護のため初めから菅田天神社に奉納したらしい。ちょうど甲府から東北の方向である塩山が鬼門の方角に当たるそうである。(京都の鬼門の方角には比叡山があるように)
その後勝頼、信勝が天目山田野にて滅ぶと、この楯無は 向嶽寺の大杉の根元に埋めたのだが、この話を聞いた家康が掘り出して再び菅田天神社に納めたらしい。
場所は塩山市役所のすぐ横にありますが、少し奥まった所にあるのでちょっと分かりにくいかもしれません。駐車場もないので注意しましょう。

 

 
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