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山梨県甲州市

雲峰寺

2013年09月21日

天平17(745)年行基菩薩を開山とする臨済宗妙心寺派の名刹で、武田家戦勝祈願寺として歴代領主の帰依が厚く、本堂、仁王門及び庫裡はすべて、武田信虎の再建した室町時代の建築で、すべて重要文化財である。また、後令泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜され、その後、甲斐武田氏の重宝となっている日本最古の日の丸の旗、天正10(1582)年武田勝頼が天目山で自刃したあと、家臣が再興を期してひそかに当寺に納めた武田の軍旗「孫子の旗」、「諏訪神号旗」、「馬印旗」などが所蔵されている。
(看板資料より)

本堂

裂石山 雲峰寺
雲峰寺は臨済宗妙心寺派に属しており、創立は明らかではないが、寺伝によれば、天平17(745)年僧行基が十一面観音を彫刻し一庵に奉祀し、開創したといわれる古刹である。創立の当初は天台宗に属していたが、甲斐源氏の武運長久の祈願寺として武田氏から深く崇敬され、いつ頃からか禅宗に転じた。
伽藍は室町末期天文年間(1532〜1554)に火災にかかり、諸堂焼失したが、この再興に関しての武田信虎の印判状が現存しており、紹謹禅師の努力によって全国に勧進のうえ伽藍が再興された。書院を除き建立年代を明確に知る史料はないが、永禄元(1558)年に武田信玄が武運長久を祈願する文書を出しており、この頃には完成したものと推定される。昭和30年代に諸堂の解体修理がなされ、旧規に基づいて復元された。
本堂には天正10(1582)年武田勝頼が一族とともに天目山麓で滅びた折、家臣が再興を期して武田家の重宝である「日の丸の御旗」「孫子の旗」「諏訪神号旗」などを山伝いに運んだといわれ、寺宝として保存されている。
重要文化財 建造物
 ・雲峰寺本堂 一棟
 ・雲峰寺庫裡 一棟
 ・雲峰寺書院 一棟
 ・雲峰寺仁王門 一棟
県指定文化財 歴史資料
 ・日の丸の御旗 一旒
 ・孫子の旗 六旒
 ・馬標旗 一旒
 ・諏訪神号旗 十三旒
県指定文化財 天然記念物
 ・雲峰寺のサクラ
市指定文化財 書跡
 ・雲峰寺文書 十点
(看板資料より)

裂石山雲峰寺の沿革
裂石山雲峰寺は臨済宗妙心寺派に属するが、寺伝によると天平17(745)年僧行基に開創にかかる古刹である。創立当初は天台宗に属したが、いつの頃からか現在の禅宗に転じた。甲斐源氏の祈願所として尊ばれ、武田氏から深く崇敬されたが、天文年間(1532〜1554)の火災により諸堂すべて炎上したという。伽藍の復興には武田信虎が印判状(現存)を与え励まし、寺僧ほかが諸方に勧進して再建をみた。現在の本堂、庫裡、仁王門などはこの時期の建立と考えられる。
雲峰寺本堂
桁行五間、梁間五間、単層入母屋造、向拝殿一間、唐破風造、桧皮葺。柱はすべて太い丸柱を用いる。内部の現状から当初は密教本堂として建立されたが、禅宗への改宗に伴い平面が改造され、また向拝が付加されたことがわかる。
雲峰寺書院
桁行八間、梁間五間、一重寄棟造、茅葺。書院とは禅宗寺院における住職の居間兼書斎をいい、一室を指していたが、後に一棟全体を指すようになった。昭和33年の修理の際に正徳6(1716)年の墨書が発見されている。
雲峰寺庫裡
桁行十間、梁間五間、東側面庇付、一重切妻造、妻入、庇葺きおろし、茅葺。室町時代末期の諸堂焼失後、武田信虎がこの寺を復興したとき、本堂とともに再建された。
雲峰寺仁王門
桁行三間、梁間ニ間、三間一戸八脚門、一重入母屋造、銅板葺、一見簡素に感じるが構造的には堂宇に類する造りで、武田信虎の再建によるものである。
また平成8年に竣工した宝物殿には、寺宝であり山梨県指定の文化財である「孫子の旗」「諏訪神号旗」「日の丸の御旗」「馬標旗」などが納められている。
(看板資料より)

庫裡

天然記念物 雲峰寺のサクラ
この木は本県サクラの巨樹の有数なものとし指定された。樹種はエドヒガンで、根廻り5.30メートル、目通り幹廻り5.00メートル、樹高21.50メートル、枝張り東8.00メートル、西10.30メートル、南9.00メートル、北8.60メートル、満開は4月20日前後、花色淡紅色、花は上方の枝より咲き始め、下方に及ぶこの木は約700年前に植えたものと伝えられ「峰のサクラ」といわれて古来名あるものである。
(看板資料より)

金刀比羅宮の由来
当金刀比羅宮は萩原郷裂石山頭飛雲嶺に鎮守として、雲峰寺の東側石段224段を登った所の山頂に奉祀せられ象頭山金比羅宮と云う。当山の古記録によるとその昔永正16年12月の石和にありし武田氏の屋形を北山筋つつじが崎へ移築の際鬼門除け東観音と共に当国鎮護として軍中の守護神を当山に勧遷し玄公父子武田家戦勝祈祷せられ爾来例祭は現今に継承する。金刀比羅宮本殿のすぐ西側の経塚からは、鎌倉時代の経筒外(現在東京国立博物館所蔵)が発掘され、雲峰寺と共にはるかな星霜と武田家ゆかりの歴史を秘めた由緒ある社であり、下って大正初期現在の社殿に再建し、数年前に修覆されました。
天下昇平、五穀豊穣、商売繁栄、成就の大般若祈祷会を修行あるいは普く世人の知識るところであります。
(看板資料より)

 



2004年10月31日

本堂

天平17(745)年行基菩薩を開山とする臨済宗妙心寺派の名刹で、武田家戦勝祈願寺として歴代領主の帰依が厚く、本堂、仁王門及び庫裡はすべて、武田信虎の再建した室町時代の建築で、すべて重要文化財である。また、後令泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜され、その後、甲斐武田氏の重宝となっている日本最古の日の丸の旗、天正10(1582)年武田勝頼が天目山で自刃したあと、家臣が再興を期してひそかに当寺に納めた武田の軍旗「孫子の旗」、「諏訪神号旗」、「馬印旗」などが所蔵されている。
(看板資料より)

裂石山 雲峰寺
雲峰寺は臨済宗妙心寺派に属しており、創立は明らかではないが、寺伝によれば、天平17(745)年僧行基が十一面観音を彫刻し一庵に奉祀し、開創したといわれる古刹である。創立の当初は天台宗に属していたが、甲斐源氏の武運長久の祈願寺として武田氏から深く崇敬され、いつ頃からか禅宗に転じた。
伽藍は室町末期天文年間(1532〜1554)に火災にかかり、諸堂焼失したが、この再興に関しての武田信虎の印判状が現存しており、紹謹禅師の努力によって全国に勧進のうえ伽藍が再興された。書院を除き建立年代を明確に知る史料はないが、永禄元(1558)年に武田信玄が武運長久を祈願する文書を出しており、この頃には完成したものと推定される。昭和30年代に諸堂の解体修理がなされ、旧規に基づいて復元された。
本堂には天正10(1582)年武田勝頼が一族とともに天目山麓で滅びた折、家臣が再興を期して武田家の重宝である「日の丸の御旗」「孫子の旗」「諏訪神号旗」などを山伝いに運んだといわれ、寺宝として保存されている。
重要文化財 建造物
 ・雲峰寺本堂 一棟
 ・雲峰寺庫裡 一棟
 ・雲峰寺書院 一棟
 ・雲峰寺仁王門 一棟
県指定文化財 歴史資料
 ・日の丸の御旗 一旒
 ・孫子の旗 六旒
 ・馬標旗 一旒
 ・諏訪神号旗 十三旒
県指定文化財 天然記念物
 ・雲峰寺のサクラ
市指定文化財 書跡
 ・雲峰寺文書 十点
(看板資料より)

裂石山雲峰寺の沿革
裂石山雲峰寺は臨済宗妙心寺派に属するが、寺伝によると天平17(745)年僧行基に開創にかかる古刹である。創立当初は天台宗に属したが、いつの頃からか現在の禅宗に転じた。甲斐源氏の祈願所として尊ばれ、武田氏から深く崇敬されたが、天文年間(1532〜1554)の火災により諸堂すべて炎上したという。伽藍の復興には武田信虎が印判状(現存)を与え励まし、寺僧ほかが諸方に勧進して再建をみた。現在の本堂、庫裡、仁王門などはこの時期の建立と考えられる。
雲峰寺本堂
桁行五間、梁間五間、単層入母屋造、向拝殿一間、唐破風造、桧皮葺。柱はすべて太い丸柱を用いる。内部の現状から当初は密教本堂として建立されたが、禅宗への改宗に伴い平面が改造され、また向拝が付加されたことがわかる。
雲峰寺書院
桁行八間、梁間五間、一重寄棟造、茅葺。書院とは禅宗寺院における住職の居間兼書斎をいい、一室を指していたが、後に一棟全体を指すようになった。昭和33年の修理の際に正徳6(1716)年の墨書が発見されている。
雲峰寺庫裡
桁行十間、梁間五間、東側面庇付、一重切妻造、妻入、庇葺きおろし、茅葺。室町時代末期の諸堂焼失後、武田信虎がこの寺を復興したとき、本堂とともに再建された。
雲峰寺仁王門
桁行三間、梁間ニ間、三間一戸八脚門、一重入母屋造、銅板葺、一見簡素に感じるが構造的には堂宇に類する造りで、武田信虎の再建によるものである。
また平成8年に竣工した宝物殿には、寺宝であり山梨県指定の文化財である「孫子の旗」「諏訪神号旗」「日の丸の御旗」「馬標旗」などが納められている。
(看板資料より)


庫裡

天然記念物 雲峰寺のサクラ
この木は本県サクラの巨樹の有数なものとし指定された。樹種はエドヒガンで、根廻り5.30メートル、目通り幹廻り5.00メートル、樹高21.50メートル、枝張り東8.00メートル、西10.30メートル、南9.00メートル、北8.60メートル、満開は4月20日前後、花色淡紅色、花は上方の枝より咲き始め、下方に及ぶこの木は約700年前に植えたものと伝えられ「峰のサクラ」といわれて古来名あるものである。
(看板資料より)

金刀比羅宮の由来
当金刀比羅宮は萩原郷裂石山頭飛雲嶺に鎮守として、雲峰寺の東側石段224段を登った所の山頂に奉祀せられ象頭山金比羅宮と云う。当山の古記録によるとその昔永正16年12月の石和にありし武田氏の屋形を北山筋つつじが崎へ移築の際鬼門除け東観音と共に当国鎮護として軍中の守護神を当山に勧遷し玄公父子武田家戦勝祈祷せられ爾来例祭は現今に継承する。金刀比羅宮本殿のすぐ西側の経塚からは、鎌倉時代の経筒外(現在東京国立博物館所蔵)が発掘され、雲峰寺と共にはるかな星霜と武田家ゆかりの歴史を秘めた由緒ある社であり、下って大正初期現在の社殿に再建し、数年前に修覆されました。
天下昇平、五穀豊穣、商売繁栄、成就の大般若祈祷会を修行あるいは普く世人の知識るところであります。
(看板資料より)


宝物殿

約5年ぶりに雲峰寺を訪れました。前回は参道を通り過ぎたところに車を止めてしまったため参道を登りませんでしたが今回は参道の下に車を止めて参道を登りました。階段は歴史を感じさせる階段で、悪く言えば歩きにくく恐い階段でした。中腹には仁王門があり階段を登りきると正面に本堂があり、その奥には書院、右には庫裡があって、更に向って右側には宝物殿とその前にはサクラの木があります。既に時間が遅かったので急いで宝物殿を見ることにしました。
宝物殿で展示されているのは、諏訪神号旗、孫子の旗、日の丸の御旗、馬標旗などですがどれも県レベルの文化財であるということが少し気になっていたので質問してみたところ、文化庁の人が調査に来たらしくそのうち重要文化財に指定されるかもしれませんね。
風林火山の旗をはじめこれらのものは武田勝頼が田野で没した後、家臣に託して雲峰寺に伝えられたといわれていますが、最初は大菩薩峠に埋められたそうです。その後再び掘り出されて雲峰寺周辺の集落で保管していましたが、旗が置いてある家では災いが起きるため、雲峰寺におさめられたのだそうです。

下の写真のように以前は本堂の中で風林火山の旗などを展示していましたが、泥棒が入り刀などが盗まれてしまったそうです。このままでは孫子の旗や諏訪神号旗なども盗まれてしまう恐れがあるということで8年前に宝物殿が作られ、そこで大事に保管されるようになったとのことでした。

 


1999年09月05日

ここは以前来たことがあるところだが風林火山の旗があることで有名である。以前来たときは本堂の部屋の畳の上に「風林火山の旗」と「諏訪神号旗」が置いてあったのだが宝物館みたいなものができていて、本堂は修理中だった。
さっそく宝物館に入ってみると、風林火山の旗が2つと諏訪神号旗2つと御旗、馬標旗が展示されていた。風林火山の旗は孫子の旗ともいい、孫子の兵法書から抜粋したものである。
風林火山の旗は江戸時代にはもともと9つあったらしいのだが、そのうち3つは行方不明になり現在は6つ現存しているとのこと。明治の初期にここ雲峰寺の住職が恵林寺の住職とバクチをして負けて1本とられてしまい、もう1本も一般民間人とのバクチで負けてとられてしまったとか。従って現在風林火山の旗はこの雲峰寺に4つ。恵林寺に1つ。民間人が1つもっていることになる。
もともと天台宗のお寺であったのが戦国時代に臨済宗妙心寺派に変わったらしい。そのため境内にある建物にはその形跡がいくつかあった。天台宗は護摩を焚くので本堂には護摩を焚ていてた跡が残っていたし、庫裏という萱葺き屋根の大きな建物も城作りという戦闘に相応しいものに作りかえられていた。この庫裏という建物は文化庁発行の文化財の本の表紙にもなっているほどのものだそうで、この中で映画「影武者」の撮影が行なわれたそうである。


孫子の兵法書
孫子は本の名前であるが人の名前でもある。ナポレオンが座右の書としていたことで有名であり、第一次大戦で敗北したドイツ皇帝ウィルヘルム二世は戦後孫子を知り「20年前に読んでいたら。。」と悔いたそうである。風林火山はこの孫子の軍争篇にある、「その疾きことは風のごとく、その徐かなることは林のごとく、侵掠することは火のごとく、動かざることは山のごとく、知りがたきことは陰のごとく、動くことは雷霆のごとし」から信玄が引用したものである。
参考文献:徳間書店「中国の思想 孫子・呉子」



1984年03月30日


家族旅行で武田信玄史跡めぐりをした際に最終日に雲峰寺に寄っていました。実は最近実家にあったアルバムに記録されていた写真を発見したのですが、現在は既に宝物館に置かれている風林火山の旗や諏訪神号旗が、当時はまだお寺のお堂の畳の上に置いてあって自由に写真が撮れたのです。当時から既に住職はおらず、老婆が案内してくれたことを覚えています。

 

 
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