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長野県坂城町

葛尾城

2014年11月
15日

主郭

この城跡は、村上氏が坂城郷に居館を構えたと推定される南北朝時代の末頃から天文22年4月村上義清が没落するまで、村上氏歴代の本城であった。
けわしい地形を利用して、最高所に本郭をおき、つづいてニ之郭、三之郭を設け各郭を深い堀切で区切っている。三之郭の下方には数多くの小段郭があって要害堅固にしている。
(看板資料より)

主郭

ここは戦国時代に、武田信玄と戦った村上義清が本拠としたことで有名な山城です。山城は、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦のころまで使われたので、現在残っている地形は義清時代そのままのものではありません。
山城は尾根の最も高い所を平にして(主郭)、人がこもれるようにしてあり、その周辺に次々に平らな場所(郭)を造成してあります。一部の郭の周囲には防御のため土塁や、尾根を切るように堀切が設けられています。北側や南側から主郭を見上げると、この山城にいかに多くの人の手が加えられているかが分かります。
尚、南側には姫城、西側の尾根にも多くの山城遺構があります。これらは葛尾城とつながりを持って造られたものです。
(看板資料より)


本郭から見えた北アルプス連峰


堀切

堀切

堀切に設置された階段

石積み

堀切に設置された階段

堀切


姫城 主郭

矢場佐久間(標高646m)に主郭を置く姫城は、葛尾城の出城である。前後を堀切で区切られた主郭は6m×20mの長方形で、その北に長円形と半円の郭2個が連なる。次に不整形と長方形の郭数個があって、大きな郭は馬場と呼ばれている。葛尾城と構築様式が異なり、築城時期はやや下がると見られる。なお、姫城の名は後世名づけられたものである。
(看板資料より)

主郭

堀切


灯の松

義清候の奥方が姫城を逃れる際、松明をこの松にしばり、その灯りを頼りに千曲の川辺まで下りたと伝えられる。
(木の杭に書かれた文章より)

 



2003年09月
22日

 

この城跡は、村上氏が坂城郷に居館を構えたと推定される南北朝時代の末頃から天文22年4月村上義清が没落するまで、村上氏歴代の本城であった。
けわしい地形を利用して、最高所に本郭をおき、つづいてニ之郭、三之郭を設け各郭を深い堀切で区切っている。三之郭の下方には数多くの小段郭があって要害堅固にしている。
(看板資料より)

ここは戦国時代に、武田信玄と戦った村上義清が本拠としたことで有名な山城です。山城は、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦のころまで使われたので、現在残っている地形は義清時代そのままのものではありません。
山城は尾根の最も高い所を平にして(主郭)、人がこもれるようにしてあり、その周辺に次々に平らな場所(郭)を造成してあります。一部の郭の周囲には防御のため土塁や、尾根を切るように堀切が設けられています。北側や南側から主郭を見上げると、この山城にいかに多くの人の手が加えられているかが分かります。
尚、南側には姫城、西側の尾根にも多くの山城遺構があります。これらは葛尾城とつながりを持って造られたものです。
(看板資料より)


今回の史跡探索のメインのひとつであったのがこの葛尾城です。この日の未明台風15号が関東地方を通過し、朝7時前後は雨はやんでいましたがまだ雲に覆われていたためそのまま牧之島城に向かいました。
葛尾城にはお昼過ぎに到着しました。車は坂城神社の裏に止めさせていただき12:40には出発。上り始めてすぐに近道と本道とに分かれてしまい、私は近道を選びました。話では「20分登ると開けた尾根のようなところに出る」とのことだったのでその場所を目指したのですが30分たってもなかなかその場所が出てきません。日ごろの運動不足のせいでかなり休みながら登ったせいか?とも思っていたのですがそのうちいつのまにか山頂に到着。上り始めて約40分くらいかかりました。今までの史跡の中で一番時間がかかったのは黒川金山の約2時間ですが、この葛尾城は40分間ずーっと急坂を登りつめるという意味では黒川金山に匹敵するくらい疲れました。
頂上には碑の他に小屋があって休憩できるようになっていましたがそこからの景色は最高でした。

こんなにきれいにパノラマ景色が楽しめたのは初めてですね。南の方を見ると坂城の町と千曲川の流れ、そしてその先には上田の岩鼻、更にその先には上田原、そしてなんと塩田城付近までが一望できました。村上氏本城から上田の町や塩田城が見えるとは思いもしませんでした。目に見えるところまで武田が迫ってきていた村上義清はさぞ危機感を感じたことでしょう。東の方に目を転じると狐落城の位置を知ることもできました。真下には千曲川が流れており、笄の渡しの先には荒砥城、そして更埴(今は千曲市内)、そして北アルプスまで望むことができました。城跡の石碑の写真を撮ることも忘れてしばらくその雄大な景色に見とれてしまいました。
山頂の奥には「至ル五里ヶ峰」「至ル陰ノ松」という看板があり、五里ヶ峰までは75分と書かれていたので断念。小屋の北側に別の下る道があったのでそこを下っていくとなんとそこには看板や、古いトイレの残骸などがありました。その看板によるとこの下りてきた道を更に降りて行くと姫城に出れるとのことでした。姫城の先はどこに下りることになるのかは分かりませんでしたがたとえちょっと離れたところに下りてしまってもそのまま行こう!と決めて下っていきました。しばらく下っていくとなんと岩肌の尾根のようなところに出てしまったのです。(下の写真)

ということは登ってきたところと同じところに降りれる!ことが分かりました。多分私は上るときに近道を選択したので帰りは本道で帰ることになるのでしょう。更にそこには「姫城0.4KM」の看板もあったのでそちらの方に行ってみましたがせいぜい40mも歩いたあたりに大きな岩が出現してまいそれ以上は進むことはできず断念。後は本道を下って14:20ころにはもとの場所に戻ってくることができました。

 
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