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山梨県甲州市

景徳院

2014年12月27日

景徳院(田野寺)は、曹洞宗下総国総寧寺の末寺で、開基は徳川家康、開山は炊けだの臣小宮山内膳の弟で、中山広厳院第7世拈橋和尚である。また、同寺一帯は武田家滅亡の地として有名で、山梨県の史跡でもある。
天正10(1582)年2月3日、織田信長は勝頼追滅のため、全軍に軍令を発した。先発の滝川一益らは諏訪口から、信長本体は伊那口から、その子の信忠軍は木曽谷から、徳川家康は万沢口から甲州に侵攻した。
すでにこの時親族衆の木曽義昌は信長に寝返り、同穴山信君も家康に降った。更に勝頼の股肱の臣とたのむ重臣たちも次々と離散し、勝頼は全く甲軍の統率力を失っていた。勝頼は郡内岩殿城(大月市)に移って再起することをすすめた小山田信茂の意見に従い同城に落ち延びようと決意。
同年3月3日早暁、入城間もない新府城(韮崎市)に火を放ち郡内を目指したが、またもや信茂の反旗の前に、笹子峠を目の前にその進路を断たれた。
勝頼はもはやこれまでと、武田信満由縁の天目山を死地と定め、日川渓谷沿いに北上田野に着いたが、3月11日敵の重囲の前になすすべもなく主従50余人は討ち死にした。
同年7月、家康は甲州再入国に際し、勝頼主従の追福を祈って田野一円を寺領として与え、一寺を建立するよう武田の遺臣尾幡勘兵衛にその指揮を命じた。また殉難諸士の茶湯料として別に一山を寄せ、武田家の追善供養を修業した。寺伝では天正16(1588)年諸堂が落成したという。創建当時の寺は、本堂・庫裡・御霊堂・総門・山門など荘厳をきわめたが、弘化2(1845)年の火災・明治27(1894)年の田野の大火で諸堂を焼失。今は江戸時代の建造物としては天保6(1835)年再建の山門を残すのみである。境内には勝頼・同夫人・信勝及び殉難諸士の墓などがある。
(大和村の文化財より)


山門

建立当時(天正16年)境内に諸堂を備えていたが焼失し、山門のみが幾多の火災を免れ当時の面影を残しています。
(看板資料より)


旗竪松

勝頼公、事すでに急迫なるを見て武田家累代の重宝旗(日の丸の御旗)を大松の根本に立て、盾無鎧を世子信勝公に着用させ、かん甲の礼を行いし処。
(看板資料より)


本堂

景徳院境内
景徳院は武田家最後の当主武田勝頼、北条夫人、嫡男信勝が自刃し、侍卒ら約50人が殉死の地である。その後徳川家康の命により、その地に建立されたのが景徳院である。景徳院は二度の火災によって創建当初の諸堂宇はほとんど灰燼に帰し、天保6(1835)年建立の山門のみが類焼を免れて現存する。本堂、庫裡、囲塀などは20数年前に相前後して再建され、鐘楼もその後建立された。
現在、境内には勝頼ら3名の影像と殉難家臣の位牌、遺品などを納める甲将殿があり、その裏手に勝頼の墓所がある。甲将殿前には勝頼らが自刃した場所といわれる生涯石があり、境内南寄り傾斜地の石仏3体は没頭地蔵といわれて、勝頼らの首の無い遺体を埋めた場所と伝わる。
境内ほぼ中央の1本の松は、当時松の孫生ではあるが、敗戦の混乱のさなか事態の急迫を知った勝頼が、武田家累代の重宝御旗を松の根元に立て、楯無鎧を信勝に着用させ、かん甲の礼を行わせた旗竪松と伝えられる。これら伝承はおしなべて戦国の世に悲運に散った武田家終焉の哀史が生んだ伝承であり、境内全体がありし日の武田家滅亡の歴史舞台を今にしのぶ縁となっている。
(大和村の文化財より)


長篠武田墓参団20回記念

本堂の右側に、長篠武田墓参団20回記念と書かれた石碑がありました。石碑には鳳来町文化協会という文字が刻まれていました。そういえば設楽原、長篠古戦場の内藤昌豊陣地に大和村特産の甲斐鞍馬石で建立した石碑があったことを思い出しました。長篠古戦場と大和村との交流を感じさせるものです。


岩舟地蔵


武田勝頼公生害石

おぼろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端


北条夫人生害石

勝頼夫人辞世の歌

黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒


武田信勝公生害石

あだに見よ誰も嵐の桜花咲き散るほどの春の夜の夢


武田勝頼の墓

武田勝頼の墓
武田勝頼は武田信玄の第4子である。天文15(1546)年、諏訪頼重の娘を母として諏訪に生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗る。信玄没後天正元(1573)年に家督を継いだ。
天正3(1575)年5月、武田軍は長篠合戦で大敗し、以降勝頼は領土の拡大より領地の支配といった内政に力を入れるようになる。また信州・駿府からの敵軍侵攻に備え、天正9(1581)年新府築城に着手、9月には落成し、11月から12月頃に躑躅ヶ崎の館から新府城に移ったようである。
天正10(1582)年2月25日、親族衆で富士川沿いの河内領を支配していた穴山信君が織田側に寝返り、3月3日に徳川家康とともに北上、更に信州の高遠城を落とした織田信忠が南下し、親族をはじめ味方の多くが勝頼の元から離れていった。勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向うべく、住み始めたばかりの新府城に火をつけた。一行が勝沼を過ぎた頃小山田信茂も入城を拒否し、勝頼の進退は窮まった。新府を出た時には5〜600人ほどいたとされる従者は、このときには4〜50人しかいなかったといわれる。
田野の地で一行は、平屋敷に柵を設け陣所とした。3月11日、滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲させた。逃れがたいことを悟った勝頼は自刃して果てた。勝頼37歳、北条夫人19歳、嫡男信勝16歳であった。
甲斐国曹洞宗総本山・中山広厳院の住職・拈橋の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれている。拈橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていった。勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首の無い三体の地蔵尊を安置した。「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。
織田信長が没すると、甲斐国は北条氏直と徳川家康が領地を争ったが、家康が甲斐国主に納まった。家康は国内安定化のため武田遺臣の懐柔策をとり、武田遺臣の優遇、兵火に焼かれた恵林寺等の復興を指示するとともに、武田遺臣・尾幡勘兵衛に命じ、勝頼の菩提寺を田野に建立させた。建立にあたり田野郷一円を茶湯料として、一山を寺領として寄進した。当初「田野寺」と称したが、後に勝頼の戒名である「景徳院」となった。天正16(1588)年に伽藍がほぼ完成したというが、本堂・庫裏・御霊屋・山門などが建ち並ぶ、壮大なものであったと伝えられている。第一世には、広厳院住職であった拈橋が入ることになった。
武田勝頼の墓は、甲将殿の背後に建立されている。中央に勝頼の宝篋印塔、向って右側に北条夫人の五輪塔、左手に信勝の五輪塔の三基が長方形の墓壇に据えられ、その両脇には正方形の基壇上に殉難者供養塔が二基据えられている。勝頼宝篋印塔の塔身側面に「相値二百年遠忌造立 當山十一世要導叟」「維持 安永四乙未歳 三月十一日」と刻まれており、勝頼の命日である安永四年(1775)年3月11日に、当時第11世住職の要導が二百年遠忌で建立したとある。
景徳院では平成18年度に県費補助事業として、武田勝頼の墓の保存修理事業を計画し、12月に弘治着手したが、その最中基壇内部から5千点を越える経石が出土した。
そのため甲州市では、平成19・20年度に出土した経石の整理と分析を、20年度には甲将殿周辺の発掘調査を行い、寺伝にはない勝頼没後から二百年遠忌までの経過を辿った。
整理作業の結果、経石は中央基壇から4710点、左右基壇から545点、その他として20点の、計5275点あること、中央基壇の経石は法華経を、左右基壇の経石は金剛般若波羅蜜経・宝篋印陀羅尼経など複数の経典を写経していることなどが判った。特筆は右基壇から出土した「戒名文字資料」裏面に「安永九年」(1780)の銘があるのに対し、中央基壇からは「安永三年」(1774)銘の経石が三点出土していることである。
また文献によると勝頼二百年遠忌は、先述の「安永四年」ではなく、安永8(1779)年に執行されたことが明らかで、3月15日から21日まで7日間に及ぶ厳粛なものであった。
発掘調査の成果では、甲将殿の正面・背面側に近くの沢から土砂を運び入れ、大造成の結果現在のような平坦面が形成されたことが判った。なお、武具や人骨など、古戦場に結び付く直接的な遺物は出土していない。
二百年遠忌により墓が建立されるまで、甲将殿とその中に安置された勝頼・北条夫人・信勝の坐像と、殉難諸士の位牌が「墓」であった。つまり、甲将殿が建つこの一帯が「墓域」であり、聖域として勝頼公の慰霊に供されている。
勝頼没後124年を経過した宝永3(1706)年、甲府城主柳沢吉保の招きに応じて来甲した荻生徂徠が記した紀行文「峡中紀行」に戦没者の供養の様子が書かれている。
(看板資料より)


甲将殿


没頭地蔵

 



2007年12月01日

没頭地蔵

旧大和村の近くまで来たので久しぶりに景徳院に寄ってみることにしました。前回来たときはちょうど1年くらい前で寒い時期でした。その時は既に甲将殿の裏にあった武田勝頼の墓がなくなっていて工事中だったのを覚えています。住職の方にまた温かくなったら来るようにと言われていたのですがまた寒い時期に来てしまいました。いつもは山門の方から登っていくのですが、今回は没頭地蔵尊の方から登って行きました。没頭地蔵尊は扉が開けられていて、お花が供えられてきれいになっていました。ここで参拝した後そのまま坂を登り切ると甲将殿の裏は未だにビニールシートで覆われていました。その代わり補修が終了したと思われる武田勝頼、信勝、北条夫人の墓などは甲将殿の左前あたりに移設されていました。甲将殿の裏が調査中の間はしばらくここに置かれるとのことでした。以前は建物のすぐ裏側にあったので見づらかったのですがこうやって正面から見るとずいぶん立派な墓であったことを実感しました。補修したためか以前より少し白っぽく感じました。その後本堂で参拝した後に、パンフレットを購入するため庫裡に声をかけてみたら住職の方が出てきてくれました。100円でパンフレットを購入した後に、武田勝頼の墓のことでお話を聞いてみたら、本殿に入って右側に資料等があるので入って見るように勧められました。さっそく本堂に上がらせてもらって右側の部屋の襖を空けてみると、武田勝頼の墓の調査時の様子の資料などが保管されていました。

武田勝頼の墓


武田菱水瓶

日川渓谷の高台に、織田軍を迎え撃つ勝頼主従の武田軍が、この水瓶で末期の水を交わしたと伝えられる。悲運の武田一族を見届けた一品。
(説明文章より)



2007年01月07日

武田勝頼親子の位牌

今回景徳院に寄る予定は無かったのですが、鞍掛、血洗沢を見学した際や、旧大和村役場に寄って資料を頂いた際にも景徳院に寄ることを勧められたのでこれも何かの縁と思って立ち寄ることにしました。以前訪れた時には入口付近の補修工事をしていましたがすっかりきれいになっていました。相変わらず雪が降っていて風も強くなりました。運良く住職がおられたのでお話を聞かせてもらえるかどうか聞いてみたところ、本堂に来るようにいわれたので本堂に行きました。ここには何度も来ましたが本堂に入ったのは初めてでした。簡単に景徳院ができた由来についてのお話をお聞きすることができました。その後仏壇中央にある、武田勝頼(中央)、武田信勝(左)、北条夫人(右)それぞれの位牌を見せてもらいました。写真を撮っても良いということでしたので撮らせてもらいました。


家臣達の位牌

また、仏壇の右奥には武田勝頼親子とともに殉死したといわれる家臣達の位牌もあったのでこちらの写真も撮らせていただきました。貫名新蔵、多田久蔵、秋山民部、秋山源三郎、小原丹後守などの名前を確認することができました。
突然立ち寄ることになりましたが、やっぱり来てみてよかったです。位牌は武田勝頼の墓の前にある甲将殿の中にあると聞いていましたが住職の話によれば最近は本堂で管理されているとのことでした。また温かくなってから来れば色々説明してくれるとのことでした。
本堂を出てから甲将殿の方に行ってみましたが、なんと甲将殿の裏にあった武田勝頼の墓がなくなっていました。工事中で立ち入り禁止のような感じで重機もあったのでまだ移動したばかりのような感じでした。さきほど頂いたパンフレットに書いてあった電話番号に電話して住職に聞いて見たところ、解体補修工事をしているとのことでした。武田勝頼の墓は確かに一部欠けていて少し恐いイメージでしたがすっかりきれいになってしまうのでしょうか? また温かくなったら是非立ち寄りたいですね。

 



2005年05月29日

天童山景徳院堂宇再建の趣意
天童山景徳院は武田勝頼公一族菩提のため徳川家康公が建立を命じ、天正16年に開創したものであるが弘化2年と明治27年の再度に亘る大火のため往時の絢爛高閣伽藍は僅かに山門を残して灰燼に帰し、爾来幾度か再建を企てたがその成果を得ず幾星霜の間仮本堂を建て雨露を凌いでいたのである。
武田勝頼公は新羅三郎義光以来連綿28代続いた甲斐の国主として父信玄公の偉業を享け青雲の志を懐きながらも武運拙く天正10年3月11日に37才の若き齢を一期としてこの地において自刃し、武田の歴史は遂に閉ざされたのであるが、有為転変は戦国の世の常とは申しながらもこの地に佇立して武田氏一族の哀史を追憶するとき誰か悲涙の情を禁じ得ないのである。
先般山梨県当局も境内を史跡に指定し、これが保存についての配慮をなされたので郷中の関係者が相謀り堂宇の再建を画して武田氏一族の終焉地に相応しい境域とすることを希い在郷の有縁無縁の篤志は申すに及ばず峡外の諸彦にも格別のご高配を賜り茲に本願の一画を達成し得たのである。
冀くは遍くこの趣意を伝承され悠久の保全に意を注がれんことを。
(石碑文章より)

今まで景徳院には何度も訪れましたがいずれも夕方頃になってしまっていました。今回のように昼の明るい時間帯に訪れたのは初めてかもしれません。今回分かったのは私は山門より奥に行ったことがなかったということでした。山門を通り過ぎて本堂まで行ってみると、勝頼の子である武田信勝が盾無の鎧を着たという旗竪松があり、本堂の裏には庭園があり岩舟地蔵などもありました。本堂の左側を訪ねて、景徳院の案内と日付入りの御朱印を購入した。


旗竪松

勝頼公、事すでに急迫なるを見て武田家累代の重宝旗(日の丸の御旗)を大松の根本に立て、盾無鎧を世子信勝公に着用させ、かん甲の礼を行いし処。
(看板資料より)


長篠武田墓参団20回記念

本堂の右側に、長篠武田墓参団20回記念と書かれた石碑がありました。石碑には鳳来町文化協会という文字が刻まれていました。そういえば設楽原、長篠古戦場の内藤昌豊陣地に大和村特産の甲斐鞍馬石で建立した石碑があったことを思い出しました。長篠古戦場と大和村との交流を感じさせるものです。


岩舟地蔵


景徳院山門

建立当時(天正16年)境内に諸堂を備えていたが焼失し、山門のみが幾多の火災を免れ当時の面影を残しています。
(看板資料より)


武田勝頼公生害石

北条夫人生害石

武田信勝公生害石


武田勝頼の墓

中央が武田勝頼、右側が北条夫人、左側が武田信勝の墓であり、その両側には殉難者たちの墓があります。景徳院の武田勝頼の墓は甲将殿という建物のすぐ裏側にあるのでなかなか写真が撮れなかったのですが、今回は甲将殿に入らせてもらって通路の部分から撮影させてもらいました。



2003年08月30日

景徳院境内
本史跡は、天正10年3月11日徳川・織田の連合軍に攻められた武田勝頼一族郎党約50名が自害した田野の地である。
武田勝頼は、天正元年父信玄の跡をついで武田氏の当主となった。宿敵織田信長・徳川家康と、長篠において戦ったが利あらず敗退した。その後新府城を築き再挙を計ったが、天正10年3月再度織田・徳川軍に侵攻され、小山田氏の岩殿城に走ったがそむかれたので、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき、主従はここに自害して果てたのである。
その後家康入国し、勝頼等一族の菩提を弔うため、僧拈橋を開山として田野寺(現景徳院)を建立した。現在本境内には、県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿がある。
(看板資料より)

天正10(1582)年3月11日武田勝頼公一族は、織田、徳川の連合軍と激戦の末、武田家の歴史を閉じた。同年7月徳川家康公が入国の際、家臣尾畑勘兵衛に命じて建立されたのがこの寺である。
境内には、勝頼公、北条夫人、信勝公が自害した生害石があり、甲将殿の裏には勝頼公をはじめ将士の墓がある。又寺の内外には、鳥居畑古戦場旗立ての松、土屋惣蔵片手切等がある。
(看板資料より)

本史跡は武田家最後の武将勝頼公及び同夫人、子信勝並びに将卒ら約50名が自害した地である。
勝頼は武田信玄の第4子として天文15(1546)年に生まれた。母は諏訪頼重の女である。天正元年28歳で甲斐国守となった。父信玄の志を継ぎ天下統一の業を進めたが、天正3年織田信長・徳川家康の軍と長篠に戦い大敗した。以来勢力回復のための進攻作戦で、数年の間敵を国内に入れなかったが、ついに天正10(1582)年織田、徳川連合軍の国内侵略を許した。
勝頼は新府で前後策を講じ、小山田信茂の意見をもちい、同年3月3日居城を自らの手で焼き郡内の岩殿城に向かったが、信茂の叛にあい、やむなく駒飼から天目山に入ろうとしてならず、力つき主従田野において最後をとげた。時に天正10年3月11日であった。
その後家康は甲斐に入国、勝頼ら将士の菩提をとむらうため、勝頼の忠臣小宮山内膳友信の弟、広厳院第7世拈橋(ねんきょう)を開山として田野寺を建立した。それが今の景徳院である。現甲将殿(影殿)の裏に墓地を設け、勝頼主従を手厚く葬った。
境内には世子信勝に「かん甲」の礼を行った場所といわれる「旗竪て松」、勝頼親子が自害された所と伝えられる「生害石」などがあり、甲将殿には主従の牌子が祀られている。
(看板資料より)


甲将殿

辞世の歌

勝頼夫人
黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒

勝頼公
おぼろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端

信勝公
あだに見よ誰も嵐の桜花咲き散るほどの春の夜の夢

武田勝頼の墓
武田勝頼は武田信玄の第4子で、信玄の没後その遺志をつぎ天下統一のため努力したが、天正3(1575)年5月長篠の戦いに敗れてから幾度かの戦いにも武運つたなく、天正10年3月11日この地において、織田・徳川の連合軍と戦い一族と共に自害して果てた。時に勝頼37歳、夫人19歳、信勝16歳であった。
新羅三郎義光以来28代495年の武田家の歴史もここに終りを告げたのであるが、同年7月徳川家康が入国のとき、勝頼以下約50名の菩提のため田野寺を建てた。これが現在の景徳院である。
墓の位置及び法名は次のとおりである。
中央 勝頼   景徳院殿頼山勝公大居士
右  北条夫人 北条院殿模安妙相大禅定尼
左  信勝   法雲院殿甲厳勝信大居士
(看板資料より)


勝頼親子が自害した場所といわれている生害石

北条夫人生害石

武田勝頼公生害石

武田信勝公生害石


没頭地蔵尊

この石仏は首無地蔵といわれ勝頼公子夫人の遺骸を葬った所です。


1999年09月05日

勝頼、信勝は天目山で最後を遂げるが、勝頼、その嫡男である信勝、そして勝頼夫人の墓があるのがこの景徳院である。勝頼夫人はこの当時敵となってしまっている北条氏政の妹である。勝頼婦人は兄である氏政に攻め滅ぼされてしまうのである。

武田勝頼の墓


法泉寺
武田信玄・勝頼供養塔
大泉寺

 

 
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