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長野県塩尻市

北熊井城

2014年05月24日

形式
主郭は戦国時代の早い時期にでき、だんだん追加されていったが、戦国末期の一連の平山城と思われるので包括的に記す。
熊井城のような平山城は新しいという見方もあるが、主郭の周りの土塁が高く、人馬の出入りの虎口がはっきりしないなど古い様式をも備えている。厚いローム層の大地のためか土砂崩れがなく石垣は一ヶ所もないのも特徴である。また規模の大きいことでも県下でも有数である。
(看板資料より)


本城 虎口跡

本城
主郭でもあり最も大きく南北は70m、東西は80mもあり、東側と南北には高さ3〜10mもある土塁を設け、その東には空掘を三重に掘ってある。西側には空掘は一つであるが、現在でも高さは17mもあり、底幅も5mくらいある。頂上からは松本平が一望できるので監視硝や烽火台があったと思われる。
発掘調査されていないので建物の様子は不明だが、石臼の破片が出土している。
(看板資料より)

本城全景


天空一本桜

この城跡は約460年前武田信玄によって改築されたといわれています。昭和51年にサクラ約30本が植えられましたがその後なぜかこの桜1本だけが風雪に耐えて天空に大きく伸び区民の語らいの場所となっています。
(看板資料より)


本城


空堀跡

西門跡


五輪様

熊井城主と思われる古い五輪塔が2基と宝篋印塔を村人は五輪様と呼んでいます。
(看板資料より)


中の城

北熊井城全景

その他の郭
本城の西に西一、西二、西三の郭、本城の東に東一、東二と計六つの郭があり、それぞれの間には空掘があって独立している。主郭が先にでき、だんだん追加されていったと思われる。東二郭の東を「竹の花」というのは、「館(たて)の鼻先」の意であろう。

土塁
城の南側に土塁を築き、人馬の繰り出しを敵に見えぬようにしてある。土塁の中間に門らしい所が二ヶ所ある。北側は絶壁のように切り立った比高約20メートルの要害で土塁はない。

水の手
城の南側と北側に小川があるが、わざわざ今泉やアワラから流れをまわして来た跡が見られる。本城の東に金池と呼ぶ湧水池もあるが今は水が枯れている。
(看板資料より)



2007年03月11日

今回、松本、塩尻方面に来たので周辺の地図を見ていて偶然発見したのが北熊井城でした。しかしなかなか場所が分からず、お店があったのでそこで聞いてみました。するとなんとこの前日に地元の歴史研究会(熊井の歴史を語る会)で北熊井城の現地見学勉強会があり、このお店のおじさんが会長を務めているとのことでした。前日の様子はこの日の新聞でも取りあげられたそうで記事を見せてもらいました。

空掘跡

その方が直々に現地を案内してくれるとのことでしたのでお言葉に甘えて案内してもらうことにしました。私の車に乗ってもらって北熊井城まで案内してもらいました。ちょうど新聞に載っていた写真のところに車を止めて空掘りのところで色々なお話を聞かせてもらいました。それによると全体で郭が6つあるとのことでした。築城されたのは1500年頃ではないかとのことであり、小笠原氏の勢力範囲の城であったとのことです。城主は熊井氏(くまいぐんべい)であり、1548年に武田信玄が小笠原長時を攻めた時に数日間でこの城を落としたとのことでした。夏の熱い頃で朝方油断していたので、あっという間に落城してしまったとのことでした。また1552年に武田軍が城の改修を行ったという記録もあるとのことでした。確かに大きな規模の城でした。石碑や案内板は特にありませんでした。

北熊井城主のものといわれている墓

また少し離れたところに城主のものと思われる墓があるとのことでしたのでそこにも案内してもらいました。開けたところに小さな墓石が3つ並んでいました。また、近所には城主の家臣の墓と思われるものもありました。

 

 
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