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長野県塩尻市

大宮八幡

2014年05月24日

所在地:塩尻市大字片丘6889番地
所有者:大宮八幡宮
イチイ(イチイ科)は別名アンコ、アララギ、スオウノキ南信ではミネゾウと呼ばれ雌雄異株の常緑高木で中部地方以北の温帯林から亜寒帯林に分布する陰樹である。このイチイは幹囲3.26メートルで塩尻市内最大の巨木である。
(看板資料より)

武田信玄旗立一位の樹
片丘南内田の大宮八幡社に、樹幹のまわり3メートル20センチの一位の樹がある。この樹を武田信玄旗立一位の樹と呼んでいる。天文22(1553)年武田信玄は、小笠原長時と桔梗ヶ原で戦争をした。この時、武田方の陣所は内田と赤木山陣場の峯にあり、ところどころに兵隊を配置した。それは、北は村井の富士見橋から南は北熊井の一本杉にわたっていた。総大将の信玄は高出の高日出神社と南内田の大宮八幡に戦勝を祈願し、両地の間を飛鳥のように駆けめぐっていた。信玄は自分の所在地を示すために、大宮八幡社(当時は大宮八幡宮といい、南に向いていた)の正面にある一位の樹に旗を立てた。内田・小池・赤木の住民は武田軍のために家を荒らされ食べ物を持って行かれたので、大沢平のあたりに小屋を造り、老人・子供・女を隠しておき、血気にはやる若者達が豊後山左手の坂に人数をまとめて陣を作って、武田軍が来たらば一戦を交えようと準備していた。武田・小笠原の戦いは5月7日午前6時頃に始まり、午前10時頃には小笠原軍の大敗で戦争も止んだ。信玄は戦争に勝ったので、御礼として大宮八幡社に弓と箭とを奉納したという。現在もその弓と箭とはお宮に残されている。ちなみにこの一位の樹は大正元年9月の台風で頂部が折れたが樹勢は盛んであり、塩尻市の天然記念物になっている。
(塩尻の伝説と民話・長野県の武田信玄伝説より)

大宮八幡のイチイ



2007年03月11日

「長野県の武田信玄伝説」という本で大宮八幡に武田信玄旗立一位の樹というものがあるとのことでしたので今回寄ってみました。本堂前の広場に車を止めて本堂右側奥に大きな木が見えたのでそちらのほうに行ってみました。すると、大宮八幡のイチイという案内板と、木の周りを覆っていた柵で隠れていた棒杭を発見しました。棒杭には「武田信玄旗建ての木(いちい)」と書かれていました。一緒に写真を撮りたかったので、近くにいた方に頼んで棒杭を外に出してもらって写真を撮らせてもらいました。彼の話によると結構訪れて来る人が多いとのことでした。木は半分は腐ってしまっているとのことで後のほうにまわってみたら確かに後半分は木の中身がなくなっていました。


大宮八幡のイチイ

所在地:塩尻市大字片丘6889番地
所有者:大宮八幡宮
イチイ(イチイ科)は別名アンコ、アララギ、スオウノキ南信ではミネゾウと呼ばれ雌雄異株の常緑高木で中部地方以北の温帯林から亜寒帯林に分布する陰樹である。このイチイは幹囲3.26メートルで塩尻市内最大の巨木である。
(看板資料より)

武田信玄旗立一位の樹
片丘南内田の大宮八幡社に、樹幹のまわり3メートル20センチの一位の樹がある。この樹を武田信玄旗立一位の樹と呼んでいる。天文22(1553)年武田信玄は、小笠原長時と桔梗ヶ原で戦争をした。この時、武田方の陣所は内田と赤木山陣場の峯にあり、ところどころに兵隊を配置した。それは、北は村井の富士見橋から南は北熊井の一本杉にわたっていた。総大将の信玄は高出の高日出神社と南内田の大宮八幡に戦勝を祈願し、両地の間を飛鳥のように駆けめぐっていた。信玄は自分の所在地を示すために、大宮八幡社(当時は大宮八幡宮といい、南に向いていた)の正面にある一位の樹に旗を立てた。内田・小池・赤木の住民は武田軍のために家を荒らされ食べ物を持って行かれたので、大沢平のあたりに小屋を造り、老人・子供・女を隠しておき、血気にはやる若者達が豊後山左手の坂に人数をまとめて陣を作って、武田軍が来たらば一戦を交えようと準備していた。武田・小笠原の戦いは5月7日午前6時頃に始まり、午前10時頃には小笠原軍の大敗で戦争も止んだ。信玄は戦争に勝ったので、御礼として大宮八幡社に弓と箭とを奉納したという。現在もその弓と箭とはお宮に残されている。ちなみにこの一位の樹は大正元年9月の台風で頂部が折れたが樹勢は盛んであり、塩尻市の天然記念物になっている。
(塩尻の伝説と民話・長野県の武田信玄伝説より)

 

 
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