←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

愛知県新城市

古宮城

2014年03月29日

当城址は、甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じ元亀2(1571)年に築城したと伝わる。城域は南北約200メートル、東西約250メートルの独立した小山全体からなっている。当時は南東北の三面が湿地になっており、西方は塞ノ神城に通じ、主要部が東西に分かれた一城別郭式の要害堅固な城であった。北側から南側にかけて中央部に全長140メートルの豪壮な竪濠があり、東域と西域に分離している。この竪濠の北方下端には井戸址と、三方を高さ1.5メートルの土塁で囲んだ約2.5アールの溜池がある。 西域の本曲輪は約4.2アールでその東側土塁には左右2か所の虎口を設けているのが特徴である。また西域北側には5重の濠を擁し、西方からの攻撃に備えている。 東域は頂部において幅約4メートルの通路で西域とつながり約3.8アールの本曲輪と並んで二の曲輪があり、その北部には多数の曲輪が見られる。東側下端は長さ150メートル、最大幅30メートルの馬場を備えており、県内唯一の甲州流築城といわれる。 尚、要害を誇ったこの城も天正元(1573)年に奥平・徳川連合軍の手によって落城した。
(看板資料より)



2005年02月11日

白鳥神社

当城址は、甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じ元亀2(1571)年に築城したと伝わる。城域は南北約200メートル、東西約250メートルの独立した小山全体からなっている。当時は南東北の三面が湿地になっており、西方は塞ノ神城に通じ、主要部が東西に分かれた一城別郭式の要害堅固な城であった。北側から南側にかけて中央部に全長140メートルの豪壮な竪濠があり、東域と西域に分離している。この竪濠の北方下端には井戸址と、三方を高さ1.5メートルの土塁で囲んだ約2.5アールの溜池がある。 西域の本曲輪は約4.2アールでその東側土塁には左右2か所の虎口を設けているのが特徴である。また西域北側には5重の濠を擁し、西方からの攻撃に備えている。 東域は頂部において幅約4メートルの通路で西域とつながり約3.8アールの本曲輪と並んで二の曲輪があり、その北部には多数の曲輪が見られる。東側下端は長さ150メートル、最大幅30メートルの馬場を備えており、県内唯一の甲州流築城といわれる。 尚、要害を誇ったこの城も天正元(1573)年に奥平・徳川連合軍の手によって落城した。 (看板資料より)

遠くから見ると森に囲まれた白鳥神社にしか見えませんが、神社の裏山を登っていくと複雑に入り組んだ堀や土塁などが組まれており明らかに城跡であることが分かります。ほとんどそのままの状態で残されているような感じなので全体像が分かりづらいですが逆に荒らされたりしていないので昔の様子がそのまま分かるような感じだと思います。作手といえば亀山城が有名で、今まで古宮城など聞いたこともありませんでしたが、奥平氏からみれば敵方である武田の武将馬場信房が築城した城ということであまり宣伝していないからでしょうか。思いもかけず貴重な史跡を発見することができました。

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→