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愛知県新城市

高坂源五郎昌澄之碑

2014年08月16日

昌澄は、武田の四天王といわれた高坂弾正忠昌宣の子として、山梨県甲府に生まれ設楽原の戦いには、25才の若さで兵2千を率いる隊将として戦った。
昌澄は始め長篠城を取り囲む城監視隊長として戦っていたが、武田勝頼本陣から設楽原前線の信玄南坂に転戦を命ぜられ、悪戦苦闘の末、今はこれまでと単身連吾川を越え、徳川の本陣めがけて斬り込んだが徳川の将、稲生次郎左エ門との戦いにここで敗れた。
稲生は家康の指示もあって、ここに埋葬し里人にも語り弔ったという。
(看板資料より)


「留守の役高坂弾正は海津城」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)


「故ありて昌澄の墓は小川路に」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)



2003年10月12日

昌澄は、武田の四天王といわれた高坂弾正忠昌宣の子として、山梨県甲府に生まれ設楽原の戦いには、25才の若さで兵2千を率いる隊将として戦った。
昌澄は始め長篠城を取り囲む城監視隊長として戦っていたが、武田勝頼本陣から設楽原前線の信玄南坂に転戦を命ぜられ、悪戦苦闘の末、今はこれまでと単身連吾川を越え、徳川の本陣めがけて斬り込んだが徳川の将、稲生次郎左エ門との戦いにここで敗れた。
稲生は家康の指示もあって、ここに埋葬し里人にも語り弔ったという。
(看板資料より)


「留守の役高坂弾正は海津城」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)


「故ありて昌澄の墓は小川路に」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

 

 
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