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山梨県甲府市

甲府城跡(舞鶴公園)

2004年08月14日

甲斐国は、天正10(1582)年武田家滅亡後は、織田信長・徳川家康(城代平岩親吉)の時代を経て、天正18(1590)年に豊臣秀吉の支配となり、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長親子により治められました。甲府城は慶長5(1600)年頃に浅野氏により完成したと考えられます。関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり、城番・城代制がしかれました。宝永2(1705)年には、徳川家以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保・吉里親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。柳沢氏の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。
明治時代には廃城となり、建物はほぼなくなり、葡萄酒醸造所が造られるなどして、明治37(1904)年に舞鶴公園として開放されました。大正6(1917)年には払い下げを受けて県有地となり、戦後の市街地復興に併せて公園整備を進め、昭和39(1964)年都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、昭和43年には県の指定史跡となりました。その後広く県民に利用されてきましたが、施設の老朽化などの理由により、昭和60年代に入り公園の改修を求める声が高まってきました。そこで山梨県は平成2年から舞鶴城公園整備事業を実施し、石垣の改修、園路・広場の再整備、堀の浄化、占用物件の移転、門(鍛冶曲輪門・内松陰門・稲荷曲輪門)や塀の復元、稲荷櫓の建設などを行いました。またそれに伴う発掘調査で、本丸や天守台の周辺からは金箔を貼った鯱瓦、鬼瓦が多く出土しました。
(看板資料より)


稲荷櫓

城内の鬼門(北東)に位置することから艮櫓ともよばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物です。明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2度にわたり建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝(地鎮具)が6点見つかりました。今の建物は、この遺構や残っていた絵図や史料などをもとに、できるだけ当時の姿に復元したもので平成16年に建築しました。
(看板資料より)

 

 
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