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静岡県吉田町

小山城

2014年12月28日

ここは永禄11(1568)年末、武田氏によって山崎の砦が築かれたところで、武田・徳川の駿遠分割協定に基づき、家康は家臣松平真乗に大井川下流を支配下に納めようとして砦を攻撃させた。
元亀2(1571)年2月武田方は本格的に遠州攻略にかかり、山崎の砦を奪い馬場美濃守信房をして、これを拡張させ、名を小山城と改め、大熊備前守長秀を城主とした。これから焼く11年間、武田方はここを拠点として中西遠へと進出するのであるが、天正10(1582)年2月徳川方の攻撃をまたず落城し、その後廃城となった。
本城は牧ノ原台地の支脈湯南原台地の東南端(片岡原)にあり、志太平野をはさんで駿河当目山と対し、駿河田中城の南、大井川河口右岸に位置する。これは武田氏の遠州攻略の海岸進攻路にあり、最初の橋頭堡の役割をする。即ち一方は龍眼山・滝堺・相良・城東へ伸びる拠点であり、今一方は坂口谷星窪原御陣場から高尾山を通り街道筋の諏訪原へと進む要である。
城は台地の先端を利用して築城され、頂点を東北東にした二等辺三角形をしている。底辺に相当する舌状台地の付根の所の高さは150m余、中央の堀の所で85m、東北の先端から南西の外堀までの距離は190mあり、全面積は約14,300u程ある。
南部は3個の堀が三重に並び片岡原との接続を断ち切る。この内、中央前方の堀は深さ6m、幅10m、長さ60m余に及ぶ。
城域はこれを三分して東北部を本郭、中央の微高地を二の郭、南部の堀に接する微低地を三の郭とする。本郭は武田氏が最初に築いた「山崎の砦」で二の郭と堀や馬出によって仕切られていたものと思われる。現状は高さ0.5mから1.0m程の土塁がめぐっており、南側の虚空蔵堂は本郭より4〜5m下がり、幅は中央で15m、長さ30mほどの腰郭になっている。この南は断崖で下に能満寺の墓地がある。これも小郭をなしていたであろう。
二の郭は南半分が約1.1〜1.2m高く、幅は最も広い所で15m、長さは40m程ある。北半分は高さが本郭とほとんど同じで長方形をしている。
三の郭は二の郭より70cm程低く、幅15〜20mあり、長さは約90mある。南部と南西部に木戸口がある。
本城の北から東にかけて湿地と湯日谷川が流れ、南部を除く三面は断崖で固められ周辺との比高は約20mある。この城の正面は片岡原で敵襲を阻止する3列9個の空掘は武田氏の築城技術をそのまま伝えるものである。
(吉田町の文化財より)


三日月堀

武田氏独特の築城によるもので三日月の形をしているので三日月堀といわれています。
(看板資料より)


馬出し

人馬の出入りを敵に知られないように工夫して築いた土手です。


犬山城を模して造られた天守閣


三重堀

守りを堅固にするために三つならべにしてある堀です。落城後この堀に身を投げた武田方婦女子の化身した赤い唇のヒルが住むようになったという伝説があります。
(看板資料より)


勘助井戸

武田氏の軍師といわれた山本勘助の声がかかっていると伝えられている井戸です。
(看板資料より)


供養塔

先史時代、及び武徳の攻防で亡くなられた人々の霊を供養するために建てられた石塔です。
(看板資料より)

 



2004年05月01日

小山城は、戦国末期の平山城である。遠州進出を企てた武田信玄はその重要拠点である小山の砦を攻略し、元亀2(1571)年砦を修築して小山城と命名し、大熊豊前守長秀を城主とした。徳川軍はこれを攻め取ろうとして十余年にわたり激しい戦いが繰り返されたが天正10(1582)年2月遂に落城した。城跡には三日月堀、三重掘、井戸等が残り、落城の悲しい物語がある。
(看板資料より)

駐車場の売店のおばさんの話では3段堀は昔からあったが、それ以外は畑になっていて荒れていたらしい。現在の本丸付近の堀は工事で造ったらしく、天守閣は犬山城を模して作ったそうです。
観光用に復原されたインチキな城と思っていたのですがそういう側面もあるものの、昔ながらの遺構も残っていて思ったより良かったです。そのまま荒れ果てているよりこうやって遺構も残しながら復元工事して管理しておくのも重要ですね。


虎口

本丸の入口です。狭く作られているのはいざという時にに敵を防ぐのに有効です。
(看板資料より)


三日月堀

武田氏独特の築城によるもので三日月の形をしているので三日月堀といわれています。
(看板資料より)


三重堀

守りを堅固にするために三つならべにしてある堀です。落城後この堀に身を投げた武田方婦女子の化身した赤い唇のヒルが住むようになったという伝説があります。
(看板資料より)


供養塔

先史時代、及び武徳の攻防で亡くなられた人々の霊を供養するために建てられた石塔です。
(看板資料より)


勘助井戸

武田氏の軍師といわれた山本勘助の声がかかっていると伝えられている井戸です。
(看板資料より)


大熊備前守屋敷跡

 

 
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