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山口県岩国市

周防源氏武田家屋敷跡


2009年08月10日

戦国時代の天文9(1540)年11月、安芸源氏の武田小三郎公は毛利元就公の援助により欽明路に移り、周防源氏の祖となり刑部少輔と称しました。その後、織田・豊臣時代を経て、徳川時代に至り、代々功績をあげましたが、文政元(1818)年12世武田宗左衛門公(号笑山)は文武両道の稽古屋敷をこの地に設けました。この稽古屋敷は明治時代の中野口小学校の前身になりました。その後も武田氏は郷土の育英事業尽力し、明治・大正時代に、玖珂実業補修女学校、大正学校の設置、16世武田甲斐人氏(1894〜1976)は、玖珂町英正学校理事として中等教育の向上に努めました。大正6(1917)年、武田氏は広島県呉市に移転して、大正中学を設置し、その後も呉港学園として現在に至っています。
武田屋敷内には、武田氏歴代の墓をはじめ、井戸、稽古屋敷跡の碑があり、屋敷跡の前面には、門と白壁の築地があります。また裏山には安芸から移された古い墓があり、墓地になっています。
(看板資料より)

稽古屋敷創設地碑


武田信宗公の墓

初めて武田を名乗った武田信義の第5子信光は、石和五郎信光と号し、40歳にして武田家の総領職を継ぎ、承久3年所謂承久の変に於いて著しく軍功を立てたるに依り、鎌倉幕府より甲斐安芸両国の守護を賜い、安芸の国には守護代を置いた。信光より5世信宗は元徳元(1329)年に安芸の国に銀山城を築き、その子信武と共に貞和3(1347)年銀山城に入城し、守護代を廃し、信武の第3子氏信を安芸の国の守護として安芸源氏の祖となした。
(玖珂支所教育委員会から頂いた資料より)


武田光和公の墓

この五輪塔は武田光和(周防源氏の始祖武田小三郎の父)の墓として伝えられ、芸州武田山銀山城下にあったものを遺骨と共に玖珂町欽明路の周防源氏武田家の墓所に遷したもの。
(玖珂町誌より)



安芸源氏は、氏信以来世々芸州銀山城主として、安芸の国の守護大名であったが、氏信より7世光和に至り、天文3(1534)年3月銀山城に卒したが、光和には正妻八重女(吉川興経の妹)との間には男子がなかったので、家老品川、内藤等相謀り、15才の光和の甥信重(光和の弟伴城主武田下野守の子)を迎えて元服せしめ、光広と改名してこれに八重女に生まれし一人娘を配し、安芸源氏八世として家督を継がさせた。
しかるに、光和に恩顧を受けた八木城主香川光景は、光広の銀山城主としての将器に乏しく、また、重臣との間も思わしくないことを憂いていたが、たまたま、光和の叔父にあたる武田信実の部下熊谷某より、光和には愛妾に生まれた小太郎、小次郎、小三郎の三兄弟があって、小太郎、小次郎の双生児は夭折したが、15歳に達した第3子小三郎が生存していることを聞知し、ついに光和の実子である小三郎を探し出し、小三郎を銀山城主にしようと企て、その助勢を毛利元就に求めた。
元就は、香川光景の真情に感動し、その援助を約し、天文9(1540)年11月小三郎と義母八重女の両人を主従数人と共に周防の国玖珂在欽明路峠の麓にかくもうた。
天文10年3月、元就は銀山城の光広と難を構えて相争い、ついに攻略し、光広は城内に自刃し安芸源氏は滅亡したのであるが、元就は小三郎を銀山城主として迎えるという香川光景との約は果さなかった。
周防国玖珂に移った小三郎は既に成人し、刑部少輔となり、容姿端正で父光和に似た才幹があり、特に甲斐武田以来、お家芸の柔術に勝れていたので、元就の要求によって影武者として元就に仕え、弘治元(1555)年厳島に陶晴賢を襲撃した際も、常に元就の身辺を護りつつ戦闘に参画し、続いて同年周防鞍掛山城主杉隆泰を攻略した時も元就の手引案内役を努めている。
小三郎は入道して宗慶と称し、周防源氏の祖となる。小三郎の正妻は父光和の末弟である安国寺恵瓊の娘。慶長2(1597)年2月4日、行年74歳にて歿す。法名、滄海院殿鉄叟大禅定門、欽明寺に葬る。
周防源氏二世光信は、元和元(1615)年5月8日の大阪落城の際、豊臣秀頼に殉死した。行年57歳。
安国寺恵瓊は銀山城主武田元繁の末子、長兄光和は七世銀山城主となり、恵瓊は芸州安国寺の住職となる。後、豊臣秀吉に仕え、12万石を賜わり、慶長5年の関ヶ原合戦に捕らえられ刎首された。恵瓊が還俗した時生まれた一女は周防玖珂在欽明路峠の麓に移った武田小三郎に嫁いだ。
(玖珂町誌より)

武田光信公の墓(周防源氏二世)

武田宗慶公(小三郎)の墓

武田八重女の墓

山口県岩国市にあるとのことで岩国市役所を訪ねたのですが、市役所では分からないらしく、玖珂の支所を訪ねるように言われました。分からないことを振るのはいいですが、せめて連絡して紹介くらいはしてほしいですね。既に16時半くらいだったのですが岩国市役所から玖珂支所に行ってみました。使った道路は国道2号線ではなかったのですが幹線道路のようで車の交通量が多かったです。山の中のトンネルを何本か通過して旧玖珂町に出ました。支所は小学校の近くにあるとのことで立ち寄ってみました。今までの経験から役場の人はあまり郷土史に詳しくないので町誌を見せてくれるようにお願いしたところ運良く玖珂町誌があり、見せてもらって関係しそうな部分だけコピーしてもらいました。また念のため場所も確認しておきました。
既に夕方で雨も強くなってきていたのでこの日に訪れることは断念し、翌朝再度岩国から玖珂に出直し、屋敷跡に向かいました。道路沿いに入口のところに看板があったのですぐに分かりました。ちょうど車を置けるところがあったのでそこに車を止めて中に入っていきました。入ってすぐの所に大きな説明板があって碑や墓石の配置図が記載されていました。古い墓石として安芸銀山城を築いた武田信宗公や武田光和公の墓がありました。
門を入ってすぐ右側には稽古屋敷創設地碑もあり、手前には井戸もありました。
その後資料を探すために図書館に行ったのですがまだ開館しておらず、図書館と同じ建物が総合センターになっていて教育委員会もあり、そこの文化財専門委員の松岡さんが対応してくれました。松岡さんからは色々な資料を頂いたり、お話を聞かせてもらうことができました。その中で武田家屋敷跡には小三郎、光信父子や八重女の墓などもあるということでしたのでその後再度訪れて裏山に登ってみました。するとちょっと登ったところに奥から武田光信、武田宗慶(小三郎)、八重女の墓がありました。


欽明寺
武田一族の墓

 

 
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