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山梨県北杜市

曲淵氏屋敷跡

2013年10月13日

甲斐国志に「曲淵氏ノ古跡片颪ニアリ、竪百間、横六十間許リ、東ヲ端門トス。西南ハ釜無川ノ険ニ臨ミ北ニ小深沢ト云フ河アリ、コレ会スル所彎曲シテ深潭トナル、曲淵ノ名此ニ出ズト云フ」とある。清泰寺の南、小深沢川が釜無川に合流する左岸、花水部落の西村と称する辺が屋敷のあったところと思われる。屋敷跡北隅の若宮八幡宮は曲渕氏の屋敷神といわれている。
(旧白州町誌より)

 



2008年01月03日

甲斐国志に「曲淵氏ノ古跡片颪ニアリ、竪百間、横六十間許リ、東ヲ端門トス。西南ハ釜無川ノ険ニ臨ミ北ニ小深沢ト云フ河アリ、コレ会スル所彎曲シテ深潭トナル、曲淵ノ名此ニ出ズト云フ」とある。清泰寺の南、小深沢川が釜無川に合流する左岸、花水部落の西村と称する辺が屋敷のあったところと思われる。屋敷跡北隅の若宮八幡宮は曲渕氏の屋敷神といわれている。
(旧白州町誌より)

朝一番で寄ったのですがまだ太陽が昇ってきていなかったので後回しにして先に中山砦に行きました。その後立ち寄りましたが今度は逆にちょうど逆光になってしまい写真を撮るのに苦労しました。ちょうど清泰寺の前でしたが、以前清泰寺に来た時にはまったく気がつきませんでした。曲渕氏屋敷跡の碑の奥には神社のようなものがありました。
曲淵氏といえば甲陽軍鑑に出てくる曲淵少左衛門が有名です。甲斐国志によれば「軍鑑ニ云フ曲淵荘左衛門ハ初メ鳥若ト云フ、板垣信方ノ僕ナリ、挙テ同心トナシ後山県氏ニ属シ勇功世ニ顕ハレタリ。天正10年幕府ニ謁シ武川衆並ビニ召出サル文禄3年11月23日没ス」とある。(旧白州町誌より)
曲淵荘左衛門というのは、多分曲淵少左衛門のことだと思います。甲陽軍鑑の品第47では、彼が登場します。極めて武功の高い曲淵少左衛門は板垣信方の被官で40歳になるまでに訴訟すること74,5回にも及び、そのうち1度だけ勝ち、1度は和解となり、後は全て負けでした。ある訴訟に負けたとき彼は奉行衆に対して「今回自分が訴訟に負けたのは奉行衆に贈り物をしなかったからである」と言った。この時の奉行の一人である桜井安芸守はこのことを信玄公に伝えたのですが、信玄公は「猫は飼主が誰かを知らずにきれいな炉の中に糞をし、あるいは飼っている鳥を狙うなど悪戯者だが、ねずみをとるという点では一段と素晴らしい」という例え話をして曲淵少左衛門を許してやります。

 

 
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