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静岡県袋井市

馬伏塚城

 
2013年12月30日

この城はいつ築かれたか明らかではありませんが、文亀元(1501)年に遠江国守護であった斯波氏と駿河国守護であった今川氏が遠江国の支配権をめぐって中遠地域で激しい戦闘が繰り広げられた時に、今川方の拠点として座王城(袋井市久野)、天方城(森町大鳥居)と共に登場しており、この時には城塞としての機能を果たしていたことが分かります。
城主として確かな史料に登場する最初は、今川氏の重臣で遠江小笠原氏呼ばれる小笠原春茂(春義・春儀)とその子の氏興(氏清)であり、高天神城(大東町土方)の城主も兼ねていたとされます。今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康の配下となります。
天正2(1574)年6月17日、南遠地方の要であった高天神城が落城し、徳川方から武田勝頼の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城を高天神城攻略の作戦本部と位置付け、8月1日から大改修を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造りあげました。
城主には家康の重臣である大須賀康高を置き、天正9(1581)年に高天神城が落城するまで、天正6年に築かれた大須賀城と共に、戦略上重要な位置を占めます。
しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正10年にはその役割を終えて廃城となり、跡地に岡山村が形成されていきました。現在の小字名として残る破城(羽城)は、城打ち壊しの儀式が地名として残ったものと考えられます。
城名の馬伏塚城の読みは、「まむしづか」「まぶせづか」と両方ありますが、現在では一般的に「まむしづか」と読んでいます。
(看板資料より)

馬伏塚城絵図

現在の地形と馬伏塚城との関係


 
2007年11月04日

この城はいつ築かれたか明らかではありませんが、文亀元(1501)年に遠江国守護であった斯波氏と駿河国守護であった今川氏が遠江国の支配権をめぐって中遠地域で激しい戦闘が繰り広げられた時に、今川方の拠点として座王城(袋井市久野)、天方城(森町大鳥居)と共に登場しており、この時には城塞としての機能を果たしていたことが分かります。
城主として確かな史料に登場する最初は、今川氏の重臣で遠江小笠原氏呼ばれる小笠原春茂(春義・春儀)とその子の氏興(氏清)であり、高天神城(大東町土方)の城主も兼ねていたとされます。今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康の配下となります。
天正2(1574)年6月17日、南遠地方の要であった高天神城が落城し、徳川方から武田勝頼の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城を高天神城攻略の作戦本部と位置付け、8月1日から大改修を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造りあげました。
城主には家康の重臣である大須賀康高を置き、天正9(1581)年に高天神城が落城するまで、天正6年に築かれた大須賀城と共に、戦略上重要な位置を占めます。
しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正10年にはその役割を終えて廃城となり、跡地に岡山村が形成されていきました。現在の小字名として残る破城(羽城)は、城打ち壊しの儀式が地名として残ったものと考えられます。
城名の馬伏塚城の読みは、「まむしづか」「まぶせづか」と両方ありますが、現在では一般的に「まむしづか」と読んでいます。
(看板資料より)

馬伏塚城絵図

現在の地形と馬伏塚城との関係


徳川家康が、高天神城を攻略するために利用したといわれている馬伏塚城は以前から気になっていたのですが、今回立ち寄ることができました。ほとんど何も残っていないような所を想像していたのですが、入り口には立派な説明板があって驚きました。説明板にも記載されていましたが当時は規模の大きな城だったのかもしれませんが現在残っているのは小さな小山で、小山の上には神社がありました。鳥居のところに馬伏塚城址と書かれた石碑もありました。木が生えているので周辺を見渡すことはできませんでした。

 

 
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