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千葉県市原市

真里谷城


2009年09月20日

主郭(千畳敷)

「まりか谷城」とも呼ばれた真里谷城は、戦国時代の初期にあたる康正2(1456)年、上総国に進出した甲斐(現山梨県)の武田信長が庁南城(長生郡長南町)とともに上総地方を支配するため築いたもので、この地方の中心となった山城です。城は「千畳敷」と呼ばれる主郭を中心に東西400m、南北700mにわたって山全体の人工的に造り変えています。、大きく4つの部分からなり、敵の侵入を防ぐため、各所に堀切や土塁、曲輪が造られています。主郭の前面(西側)は、自然の谷を利用して二ノ郭と分断されています。城の入口となる大手は、三ノ郭北西の矩形を呈した掘割道に続く箇所と思われ、一方非常時の逃げ道となる搦手道は、主郭南方の尾根筋などが想定されます。ここには土橋などが設けられています。
真里谷城は、永正14(1517)年から天文3(1534)年までの約20年間が全盛期であったようで、武田と里見の連合勢が北条に敗れた国府台合戦(1538年)以降、武田氏の勢力が衰えるとともに次第にその役割を終えたと思われます。
(看板資料より)

室町時代中頃から戦国時代に至る中世の上総地方を支配したのが、真里谷武田氏である。この武田氏の祖が武田信長で、康正2(1456)年に築いたのが、この真里谷城と庁南城である。信長は、甲斐(山梨県)の守護武田氏十三代武田安芸守信満の次男である。
信長は、応永23(1416)年に起きた前関東管領上杉禅秀(氏憲)の乱に、父の信満と共に加わったことにより後日、室町幕府の反対で武田氏を継ぐことができなかった。その後、幕府と鎌倉公方の対立から幕府に仕えるようになり、永享12(1440)年の結城合戦には戦功をあげている。永享の乱(1438〜39)で討死した鎌倉公方足利持氏の遺児が成氏と名を改めて鎌倉公方になると、信長は鎌倉へ下り、成氏の近臣となった。ところが、成氏は、領地問題で関東管領の上杉憲忠と争うようになり、最後には幕府の追討軍に鎌倉を追われ、古河公方と称するようになった。信長は、この成氏に従い、康正2年には、幕府側の千葉自胤を市川城(市川市)に破っている。この時、成氏から上総地方の守護代に任ぜられている。そして、信長は息子の信高ら一族と共に、上総地方へ侵入している。まず、真里谷城と庁南城(長生郡長南町)を築き、これを根拠地として支配体制を確立していった。その後、武田氏は上総地方の各地に、大多喜城(夷隅郡大多喜)、久留里城(君津市)、佐貫城・造海城・峰上城(富津市)、佐是城・椎津城(市原市)、笹子城・中尾城(木更津市)などの支城を築いていった。文明9(1477)年に、信長は没している。
第三代の信興の時から、武田氏は真里谷氏を称している。同11年には、千葉自胤が庁南城とこの真里谷城を攻め、信興は降伏している。それから、しばらく真里谷城は平穏な生活が続いた。やがて、庁南武田氏が、小弓城主の原氏と紛争を始めようになると、第四代の真里谷信勝は、足利成氏の孫である足利義明を擁立し、安房の里見氏と手を結んで、原氏を小弓城に破っている。義明は小弓御所と称するようになり、信勝は房総管領に任ぜられている。この頃が真里谷氏の全盛期であったと思われる。第五代の信保の死後、家督争いが信保の子信隆と信応の間に生じた。また、『群書類従』の「笹子落草子」や「中尾落草子」に書かれているように、内紛が生じ、勢力が急速に弱まっていった。天文9(1540)年には、一族の久留里城主である勝真勝が、里見義堯に城を譲ったため、この真里谷城も、しだいに里見氏の支配下に入っていったようである。信隆(あるいは信応)の子といわれている真里谷信政は、後北条氏側につき、椎津城にいたため、同21年に里見氏によって椎津城を攻め落とされている。このころから、真里谷氏はしだいに歴史上から姿を消していった。
(日本城郭大系より)


城山神社

由緒沿革
本神社は大災のため諸々の記録焼失創立年月を考証する資料なけれども寛永5年武田三河守の城内に鬼門除として斎き祀ると伝え来り市野々、泉谷両部落の氏神にて尊信極めて篤く殊に1月、11月の7日には遠くは夷隅、市原筋よえいの参詣者あり、前社殿は明治初期の建設なるも昭和62年7月吉日に再建される。
資源としては昭和52年5月21日、木更津市と少年自然の家建設地として山林111.135u賃貸契約を結び年間地代、立木補償金にて再建す。
(石碑文章より)

真里谷城の始まりは戦国期前半に上総経営の一拠点として、真里谷武田氏によって構築されたと伝える。真里谷武田氏は庁南(長南)武田氏と同族の房総の武田一族であり、庁南系から独立して西上総の攻略・経営を担っている。その後、天文6(1537)年に真里谷武田一族の分裂が起こり、峰上城主の武田信隆が、真里谷城主で当主の信応に対抗した。この状況を記した「快元僧都記」によると、信隆は「真里谷新地の城」にも勢力を持っていたという。この新地城の所在については諸説あるが、現在はこの天神台城に比定する説が有力である。
 さて、この内乱を契機に真里谷武田氏は双方ともに衰退し、16世紀中葉以降は歴史の舞台から退くように凋落している。真里谷城もこの段階では西上総の中心的な機能からは遠ざかっていったと想定できる。
(図説 房総の城郭より)

今回は時間が無かったこともあり、城の一部しか確認することができませんでした。南東方面の主郭、城山神社、虎口などのみです。二ノ郭、三ノ郭、四ノ郭なども存在するとのことであり、次回訪問が必要です。

 

 
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