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長野県飯田市

松尾

2015年10月12日

本曲輪

 

松尾城址案内図

松尾城は天竜川の河岸段丘を利用して構築された連郭式平山城である。遺構の残存状況は良好である。下伊那地方の中世城郭のモデル的性格をもつ城郭の一つといえる。東方は天竜川に臨み、南の毛賀沢川と北の北の沢川を自然の堀として、その間の三段の段丘を利用して構築されている。三段の段丘の中段が城郭の中枢部であり、主郭・ニの郭・三の郭を中心に主要な遺構・地名が残っている。
明応2(1493)年頃、松尾城の小笠原定基は、毛賀沢を挟んで南に位置する鈴岡城主で信濃国守護職および小笠原家惣領職であった小笠原政秀を倒した。これは小笠原氏内部で長く続いていた惣領職争いの結果であった。当時小笠原氏は松本の深志小笠原氏、伊那の鈴岡小笠原氏・松尾小笠原氏の三家に分裂していた。下伊那では隣接する鈴岡と松尾の両小笠原氏が勢力争いを続けていたが、鈴岡小笠原氏が守護職および惣領職を握っていて優位にあった。松尾小笠原定基は、この形勢を一挙に逆転させようとしたわけである。しかし結果的には松尾小笠原定基は、深志小笠原および下条氏の連合軍に攻撃され、松尾城から逃れ、甲斐武田氏のもとに身を寄せることになる。この後、定基は松尾城に復帰したが、天文年間初年頃、定基の死後、深志小笠原氏の長棟とその子長時が伊那郡に入り、定基の子貞忠を甲斐国に追い、長時の弟信定を擁立して鈴岡小笠原家を再興させた。
享禄元(1528)年以降、甲斐の武田信虎・晴信(信玄)の親子二代にわたる信濃侵略が開始され、信虎の時代には甲斐・信濃国境で一進一退の攻防戦を展開したが、、晴信の時代の天文11(1542)年に武田氏は諏訪を掌握した。また同18(1549)年頃には上伊那地方を掌握した。
更に天文23年に松尾小笠原定基の子信貴を先鋒として下伊那地方に侵入し、信定の居城鈴岡城を攻撃し落城させた。松尾小笠原家は信貴によって再興されることになり武田氏の重臣山県昌景の率いる伊那先方衆として百騎をもつ松尾城主となった。

天正元(1573)年に武田信玄が死去し、武田氏は衰退に向った。そして同10(1582)年に織田信長による伊那侵攻が開始され、武田氏の下伊那地方における防衛線は簡単に崩れた。この時松尾城の信貴の子信嶺は戦うこともなく織田軍に降伏し、織田軍支配下に入った。武田氏の滅亡後、信嶺は信長から旧領を安堵され松尾城に居城することになった。その直後、同年6月信長が本能寺の変で殺されたため、信長に代わって徳川家康が伊那谷を領知した。小笠原信嶺は家康から旧領を安堵され引き続き松尾城に在城した。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の国替政策により家康が関東に移封となったのに伴い、伊那郡の領主も関東へ所替えされた。松尾城の小笠原信嶺は武蔵の本庄へ移封され、松尾城も廃城となった。
(日本城郭大系より)

本曲輪

松尾城は、松尾小笠原家の居城です。段丘の端に主郭を設けており、背後は切り立った崖で守られています。地続きの北西側には、何重もの深い堀で防御を固めていました。また更に北側に広がる南ノ原の台地にも家臣団の館があったことが分かっています。
松尾城の始まりは不明なことが多いようですが、南北朝時代に小笠原貞宗が居城したといわれています。小笠原氏は武術・作法に秀でた一族で、室町時代を中心に、信濃国守護を努めました。しかし県内では深志・松尾・鈴岡の三家に分立し、信濃国守護職をめぐって争うようになりました。松尾城は鈴岡城と並んで小笠原抗争の舞台となりました。天正10(1582)年、織田信長に攻められて落城し、天正18(1590)年、小笠原氏は本庄(埼玉県)に移り廃城となりました。
(看板資料より)

二の曲輪

毛賀沢川に臨む段丘突端の残丘を利用して構築された平山城である。外郭を含めた全体規模は東西600メートル、南北350メートルを計り、本曲輪、二曲輪、三曲輪を主に各所に空掘、土塁、腰曲輪、段曲輪などを残す飯田地方の代表的な城郭のひとつである。
同族である、深志小笠原氏、鈴岡小笠原氏と対立関係にあった松尾小笠原氏の居城として15世紀末から16世紀末の約100年間用いられたものである。武田信玄及び織田信長という戦国武将の動きに左右された地域城郭の姿を示すものである。
発掘調査等による出土品も15世紀から16世紀に限定された城の盛衰を裏付けている。
(看板資料より) 

本曲輪からの南アルプス連峰

 



2004年3月13日

松尾城址案内図

毛賀沢川に臨む段丘突端の残丘を利用して構築された平山城である。外郭を含めた全体規模は東西600メートル、南北350メートルを計り、本曲輪、二曲輪、三曲輪を主に各所に空掘、土塁、腰曲輪、段曲輪などを残す飯田地方の代表的な城郭のひとつである。
同族である、深志小笠原氏、鈴岡小笠原氏と対立関係にあった松尾小笠原氏の居城として15世紀末から16世紀末の約100年間用いられたものである。武田信玄及び織田信長という戦国武将の動きに左右された地域城郭の姿を示すものである。
発掘調査等による出土品も15世紀から16世紀に限定された城の盛衰を裏付けている。
(看板資料より)

 


鈴岡城の出丸から北側に下って毛賀沢川にかかっている橋を渡ってその先を登っていくと松尾城に行くことができました。毛賀沢川の橋を渡っていくと鈴岡城の北側の崖の険しさがよく分かります。松尾城跡の碑があったところは公園として整備されていていました。付近に設置されていた案内板によれば松尾城の規模も大きかったと思われますが今回は城址公園となっている本曲輪だけの見学となりました。

 

 
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