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長野県飯田市

鈴岡城

2015年10月12日

本丸

鈴岡城は天竜川の西、伊賀良段丘の突端部に位置している。北方に深さ約70mの毛賀沢川の侵蝕谷があって谷底に伊賀良川とよばれる用水が通っている。更に東方には段丘崖の直下から天竜川に向って駄科・長野原の平坦地が広がっている。この城は梯郭式の縄張りである。段丘崖先端中央部に主郭を置き、周囲に二の郭・出郭・外郭が堀を隔てて取り巻いている。外郭の西方はゆるい傾斜面で、伊賀谷の台地につながっている。この部分を「本城」「遠見原」と呼び、南北に丘陵を切断する二本の堀がある。また、伊賀良井を挟んだ南方対岸は「松ヶ崎」とよばれ、ここにも城郭施設があったと考えられる。その麓には現在、念通寺がある。大手は土塁などの位置からみた場合西方と考えられるが、城下は主郭の東方崖下の平地にあったと考えられ今後の検討課題と思われる。
この城は松尾城と同様、小笠原氏の居城であった。室町時代に小笠原貞宗の子宗政が築城したといわれるが、小笠原氏はその後、深志・松尾・鈴岡の三家に分裂して抗争を繰り返した。甲斐武田氏の伊那攻略に際して松尾の小笠原信貴が武田に属したが、鈴岡の小笠原信定は深志の小笠原氏と共に武田氏と戦って敗れ、京都に逃れた。その後、鈴岡城は松尾城の支城になったといわれている。
天正18(1590)年に松尾の小笠原氏が武蔵本庄に移封となった時に、鈴岡城も廃城となったと考えられる。
(日本城郭大系より)

本丸

主郭
郭とは、周囲を掘や土塁などの防御施設に守られた平坦地のことをいいます。城の中心部となるのが主郭でここには城の重要な建物があったと考えられます。主郭の北・西・南側にはそれぞれ堀がめぐらされ、東側は急峻な自然地形を利用しています。
主郭の規模は北側で約80m、西側で約45mあります。西側の堀に面して郭の端部には土塁の一部が残っています。
(看板資料より)

本丸

この城跡は、飯田市駄科の西北にある段丘の東突端、標高約490メートルにあり、自然の地形を巧みに利用して構築された平山城跡で、いくつかの空掘で区切られた本丸、二の丸、出丸及び二つの外郭並びに西方高地にある遠見原の要害からなっている。
築城は、小笠原貞宗の第二子宗政が松尾家から分家して鈴岡家をはじめた頃といわれる。宗政は貞和元(1345)年天竜寺供養の際随兵を勤めているが子孫は判明していない。
築城以来、松尾・鈴岡・深志の小笠原三家の間においてしばしば不運な争いが起こり消長を重ねたが、天文23(1554)年8月武田晴信(信玄)の伊那進攻により松尾城の支城となり、天正18(1590)年廃城となった。鈴岡小笠原家は一時期には宗家の松尾小笠原家に代わって南伊那を治めているが同家の居城であった。
この城跡は幾多の興亡の歴史を秘めてほぼ原形に近い形で保存されており、中世の南信濃における平山城の遺構を探る上で貴重な城跡である。
(看板資料より)

鈴岡城の概要
鈴岡小笠原氏の居城として15世紀後半の戦国時代に用いられた鈴岡城は、竜丘駄科区と伊賀良殿岡地区の中間に位置して台地の突端部にあり、標高490メートル、北は毛賀沢川の侵食による深さ約60メートルの谷を隔てて松尾城址と相対している。
城址はこのように天然の地形を利用した平山城で、その中に人工を加えた幾多の空掘や郭等が設けられている。この図にはないが外郭から西北方向の斜面にも300メートル程の間にいくつかの郭が形成され、全体では東西300メートル×南北600メートルにわたる大規模なものであった。
松尾小笠原氏とは同族の間柄であるが、信濃守護職をめぐり、鈴岡城主が松尾側に殺される等争いが絶えなかった。一旦は断絶となった鈴岡城はその後再興したが1554年に武田信玄の攻撃をうけ落城した。
城址は昭和46年に県史跡に指定された。現在、本丸と出丸は公園として利用されており、二の丸と外郭は畑となっている。また毛賀沢川にかかる不動ヶ橋を利用して対岸の松尾城址え行くことができるが、松尾城も現在公園として整備されている。
(看板資料より)

鈴岡城は、鈴岡小笠原家の居城です。段丘の突端に主郭を置き、背後は「念通寺断層」により形成された段丘崖で守られています。台地続きの西側は幾つもの堀と郭で防御を固めています。特に最大30mにもなる内堀と二郭を取り囲む外堀は見事です。毛賀沢川の対岸には松尾城が築かれています。
鈴岡城の始まりは不明な点が多いのですが、南北朝時代に小笠原宗政が築いたとされます。15世紀後半に政秀が在城してからは、伊賀良庄と信濃守護職を巡り松尾小笠原家と争いました。明応2(1493)年と天文23(1554)年に松尾小笠原家に攻められ落城しました。その後、天正18年に松尾城が廃城となるまでは、その支城となったとともいわれています。
(看板資料より)


本丸と二の丸の間の堀

鈴岡城は、北・東・南面が急な斜面となる自然地形を生かしてつくられていますが、更に人工的に堀をめぐらし、防御を固めています。主郭や二郭の間にある堀や二郭の外側をめぐる堀はいずれも急な斜面を下り、城の北側を流れる毛賀沢川にまで達しています。
主郭と二郭の間の堀は、主郭の南側で、現状での最大幅約18m深さ約6mあります。
(看板資料より)

本丸と二の丸の間の堀

二郭
主郭の南西側に位置する郭です。主郭を囲むようなL字形をしており、南北・東西ともに約百十mあります。二郭は、周囲を堀により囲まれており、南、西、北側の一部には土塁の痕跡が残っています。また、主郭の防御性を損なわないよう、主郭よりも低く造られています。建物の状況について、詳しいことは分かっていません。
(看板資料より)


本丸土塁

土塁とは敵の侵入を防ぐために郭の周囲にめぐらされた施設で、堀とともに城にとっては最も基本的な防御施設であるといえます。土を盛り上げてつくられていることから土塁といいます。
下から攻め登ってくる敵兵にとっては障害物となりますが、城を守る城兵にとっては土塁の陰にかくれて攻撃を仕掛けることができます。
(看板資料より)


出丸

主郭の北側に位置する郭です。周りの急峻な自然地形を利用しており、尾根の先端を堀切により切り離した郭です。南北が約50m、東西が約35mの三角形をしています。
どのような建物があったかは分かっていません。毛賀沢川を挟んで対岸には、松尾小笠原氏の居城であった松尾城跡があります。
(看板資料より)

 



2004年3月13日

鈴岡城址案内図

この城跡は、飯田市駄科の西北にある段丘の東突端、標高約490メートルにあり、自然の地形を巧みに利用して構築された平山城跡で、いくつかの空掘で区切られた本丸、二の丸、出丸及び二つの外郭並びに西方高地にある遠見原の要害からなっている。
築城は、小笠原貞宗の第二子宗政が松尾家から分家して鈴岡家をはじめた頃といわれる。宗政は貞和元(1345)年天竜寺供養の際随兵を勤めているが子孫は判明していない。
築城以来、松尾・鈴岡・深志の小笠原三家の間においてしばしば不運な争いが起こり消長を重ねたが、天文23(1554)年8月武田晴信(信玄)の伊那進攻により松尾城の支城となり、天正18(1590)年廃城となった。鈴岡小笠原家は一時期には宗家の松尾小笠原家に代わって南伊那を治めているが同家の居城であった。
この城跡は幾多の興亡の歴史を秘めてほぼ原形に近い形で保存されており、中世の南信濃における平山城の遺構を探る上で貴重な城跡である。
(看板資料より)

鈴岡城の概要
鈴岡小笠原氏の居城として15世紀後半の戦国時代に用いられた鈴岡城は、竜丘駄科区と伊賀良殿岡地区の中間に位置して台地の突端部にあり、標高490メートル、北は毛賀沢川の侵食による深さ約60メートルの谷を隔てて松尾城址と相対している。
城址はこのように天然の地形を利用した平山城で、その中に人工を加えた幾多の空掘や郭等が設けられている。この図にはないが外郭から西北方向の斜面にも300メートル程の間にいくつかの郭が形成され、全体では東西300メートル×南北600メートルにわたる大規模なものであった。
松尾小笠原氏とは同族の間柄であるが、信濃守護職をめぐり、鈴岡城主が松尾側に殺される等争いが絶えなかった。一旦は断絶となった鈴岡城はその後再興したが1554年に武田信玄の攻撃をうけ落城した。
城址は昭和46年に県史跡に指定された。現在、本丸と出丸は公園として利用されており、二の丸と外郭は畑となっている。また毛賀沢川にかかる不動ヶ橋を利用して対岸の松尾城址え行くことができるが、松尾城も現在公園として整備されている。
(看板資料より)

二の丸の堀


鈴岡城は鈴岡公園を目指して行きましたが坂を下っていく途中に突然左側に公園への入口がありました。公園の案内板のところに車を止めて案内板を見ると本丸と出丸は公園として整備され、二の丸の方は木が生えていました。それぞれの郭の間は大きな空掘で仕切られていていました。出丸は展望台のような感じになっていてここで休憩していたら更に先に下っている遊歩道からおじさんが登ってきていたのでこの先に何があるのか聞いてみるべく登ってこられるのを待ちました。おじさん曰く、この先を下って毛賀沢川にかかっている橋を渡って行けば松尾城に行かれるのだそうです。鈴岡城と松尾城は毛賀沢川を挟んで本当に近いところに位置していました。大声で叫べば声が届きそうな感じでした。昔はこの道ではなく、出丸から東のほうに見える段々畑のところを通って行く道があったのだそうです。また鈴岡城と隣の松尾城との間は兄弟で対立していたが鈴岡城側が松尾城側に殺されてしまったのだとも言っておられました。殺された場所が城の東側の麓にあるらしいです。
二の丸側は公園ではないのですが大規模な空掘の遺構が残っているので是非こちらの方も見ていかれることをお勧めします。

 

 
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