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山梨県上野原市

長峰砦

2009年12月29日

 発掘調査された長峰砦跡
長峰砦跡は、山梨県の東端部、上野原町大椚地区に所在した、やや小規模な中世の山城跡です。この付近は戦国時代の終わり頃、甲斐と武蔵・相模とが国境を接するところで、当時こうした国境地帯によく見られる、「境目の城」と呼ばれるものの一つで、周辺のいくつかの城郭と結びつきを持ちながら、国境警護の役割を担ったものと考えられていました。
しかしそれがいつ頃、誰によってつくられたのか、どのような戦いの歴史があったのかなどについては不明な点が多く、また1960年代後半の中央自動車道建設工事などによる影響のため、元の姿をよくとどめない状況になっていました。このような中で1990年代後半になって再びこの遺跡が中央自動車道拡幅工事の計画区域に取り込まれたため、工事に先立ち平成7・9・10年度の3年にわたって発掘調査が実施されました。
調査の結果、戦国時代末の長峰砦に結びつくと考えられるものに、山地を整形して設けられた郭(見張り小屋などを置く平坦地)の跡、尾根を切断する堀(堀切)の跡、斜面を横に走る横堀の跡などがあり、とくに堀跡からは鉄砲の玉が出土したことなど、いくつもの成果が得られています。また長峰と呼ばれるもとになった尾根状地形のやや下がった位置に尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続的に確認されました。これは江戸期の「甲州街道(正式には甲州道中)」に相当すると見られるものでありました。
長峰砦跡は、その歴史的な全体像を理解するには、すでに手掛かりの多くが失われているものでありましたが、それでも発掘調査を通じて次のような歴史をとらえることができるとものと思われます。
この長峰の地には、縄文時代以来の人々の何らかの活動の跡も断片的ながら確認され、ここが古くからの交通の要所であって、戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われています。そこで交通を掌握し、戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれました。
その後、江戸時代になって砦の後の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備され、ここを行き来する旅人は砦の時代を偲びながら通行していきました。そうした歴史は現在の中央自動車道にひきつがれているものといえましょう。
(看板資料より)

 「長峰の史跡」説明版
「長峰」とは鳶ヶ崎(鶴川部落の上)から矢坪に至るまでの峰を指す呼び名ですが、戦国時代に上野原の加藤丹後守が、その出城というべき砦をここに築いたことから、いつかはこの付近だけを長峰と呼ぶようになりました。
丹後守は武田信玄の家臣で、甲斐国の東口を北条の侵略から守るため、この砦で監視しました。
ここは、当時の交通の要所であり、要害な地であるばかりでなく、水にも恵まれていました。砦の北側は仲間川に面して崖となり、南面には陣門と呼ぶ木の柵を立てて守りを固め、常に番兵が見張りに当たっていました。
柵の東側に「濁り池」、その西北部に「殿の井戸」と呼ぶ泉がありました。
「濁り池」は、いつもどんより濁っていたので、こう呼ばれていましたが、一般には「長峰の池」で通っていました。約100平方メートルの小池で、どんな干ばつにも枯れたことはありませんでした。池の中にヒシという水草が群生していたことも有名でした。
「殿の井戸」は、きれいな水がこんこんとわき、日照りのときでも絶えなかったといわれていました。おそらく、領主が出かけた折、好んでこの水を飲んだことから、こう呼ばれたのでしょう。
側にある石碑は、この地域の獅子門俳諧の門下、日野の花岳寺16世八峰が、芭蕉と芭蕉門十哲の一人獅子庵支考(蓮二房)の句をそれぞれ刻んで建立したものです。
現在、この史跡の真ん中を中央高速道路が通っています。
 上野原教育委員会
(看板資料より)

伝えられるところによれば、この砦は天正年中(1573〜92)に武田家の家臣の加藤丹後守が築いたものだという。-(『甲斐名勝志』)
(山梨県の武田氏伝説より)

野田尻と東大椚の境の鳶ヶ巣という所にある。官道のかたわらの少し高い所で、上は平地で北方に堀切がある。陣鐘などを置いて敵の襲来を告げた所であろう。-(『甲斐国志』2-395)
(山梨県の武田氏伝説より)

高速道路の反対側

中央高速の談合坂の坂の真横にありました。高速道路からも確認することができます。そして現地の案内板によると砦跡はちょうど中央高速道路で真っ二つに分断されてしまったとのことでした。確かに反対側にもそれらしき遺構のようなものを確認することができました。

 

 
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