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長野県阿智村

大平神社

2013年08月01日

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頭権現
天正10年の頃、山伏姿の旅人が神坂峠を越えようとして園原に近い殿島という所に来ました。この時村の熊谷弁治という人が草刈りをしているのを見て道をたずねました。
弁治は、その言葉が無礼なのを怒り持っていた鎌で山伏を殺し谷間に埋めてしまいました。その後数年たってから、熱病が流行した時一人の患者が熱にうなされて「私は殿島で殺された武田信豊だ。山に埋められて今、口や目鼻に木の根がはびこり霊魂は鎮まることができない。私の遺骨を集めて来て神として祭ったならば熱病を治してやろう。」というのです。さっそくそのあたりを掘って骨を探し出し祠を作って祭ったところ、不思議なことに病人はたちまち治りました。
この祠を大平神社と称し、熊谷家の氏神として祭ってあります。御神体が頭蓋骨で頭の病気に効きめがあるということから、頭権現と呼ばれ、春秋二回の祭日には大勢の参拝者があるようになりました。
(看板資料より)

<EOS M EF-M11-22mmf/4-5.6ISSTM 19.0mm Tv:1/30 Av:5.6 ISO:800>

神社名:大平神社(頭権現)
御祭神名:武田信豊、木之花 佐久夜姫、大国主之命
例祭日:春の祭典日(4月28日)、秋の祭典日(9月28日)
社務所:長野県下伊那郡阿智村智里2133
宮司:熊谷睦男

由緒
天正10(1582)年3月頃、甲斐天目山の敗戦者が山伏の姿をして神坂峠を越えるための道を、草刈りをしていた村人熊谷弁治に尋ねたところ、言葉が無礼だと言い争いになり決闘の末、無残にも山伏姿の者を鎌で撃ち殺して谷間に埋めてしまった。しかし彼はあの時山伏が「私は武田の一族である」と言っていたのを思い出し、元来私の先祖は源家の家臣熊谷直実より生まれた者。武田の家は源家の正統であるから、怒りにまかせて殺してしまったが、遠祖の関係を思えば悔いが残ると思い遺体を掘り起こして氏神様としてこれを祭った。この時が文禄元年の事である。
又、一説には、数年後この地域に熱病が流行り多くの人が感染した。一人の患者が熱病に伏せりその床で「私は熊谷弁治に殺された武田の遺臣である。殺され埋められた遺体は、木の根が絡まり私の霊魂は鎮まることができない。私の遺骨を神として祭れば病は治るであろう」と告げた。そこで遺体を見つけ出し祭ったところ、数多くの患者が病から立ち直ったと言う。(智里村誌)。明治4年の神社取調書上帳には、明和9辰(1772)年に勧請、文政11(1828)年に京都の神祇管理から大平不動の称号を受け、神名帳へ登録したとされている。頭蓋骨を御神体として祭祀することから、俗に頭権現と言われ、頭部の病気に霊験があるとされている。遺体を掘り起こした場所は現在の殿島付近との記あり。

将軍塚で火伏の神事(阿智村横川) 信玄公の命日
戦国時代の武将、武田信玄公の命日に当たる12日、ゆかりの地、阿智村横川の将軍塚で火伏厄除供養が行われた。地区の住民20人が出席して、信玄公の供養と地区民の安泰を祈願した。将軍塚は横川の集落対岸にある高さ10メートルほどの小高い丘。上清内路の原郁雄さん宅(77歳で他界)の古文書から(武田信玄公の亡骸を密かに横川に埋葬し、家臣の原大隅守が塚守として清内路に居を構えた)との記録が見つかり、1989(平成元)年に大隅守の原さんが横川の地主に協力を求め、塚周辺を整備、鳥居を設置した。将軍塚守会が原さんと横川住民により結成され、91年から毎年4月12日に祭りを行うことになった。原郁雄さんの夢枕に阿智村の頭権現が現れたとの言葉をきっかけに横川に働きかけた。後熊谷家に訪れた原郁雄さんは、武田氏縁の宮頭権現の(胴)が園原に奉られて居るとの事。
(神社の説明資料より)

 


将軍塚

 

 
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