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長野県阿智村

清内路関所跡

2013年08月01日

<EOS M EF-M11-22mmf/4-5.6ISSTM 11.0mm Tv:1/125 Av:8.0 ISO:100>

清内路関所の変遷
関所設置の時期については、「伊那郡郷村鑑」に来ノ地士原氏代々居住、永正年中(1504〜20)原伝左衛門ハ下条家ヘ属ス。当御関所ハ弘治年中(1555〜57)甲州武田晴信当国迄手ニ握リ、当所并浪合・和合・市瀬四ヶ所に関ヲ据給フ。当御関所此此ハ蘭ノ上ノ山(清内路峠)ニ建ツ。故ニ蘭ノ関ト云」とあり、和合と帯川と心川に分ち、小野川を加え六関とする説もある。
創設された関所は武田晴信(信玄)より下条信氏が預かり、取締りは清内路在住の原伝左衛門が当たった。最初の関所は清内路峠(木曽峠)の近くにあり、徳川幕府の基礎がようやく確立した慶長6(1601)年に、上清内路と下清内路の中間、国道256号線からニワトリ渕を隔てた対岸バンヤ沢に一時移転した。
しばらくして現在地市場に敷地120坪、建物約40坪の関所が設置された。
清内路関所は「諸国御関所改方写」によると、
一、武具・女・前髪これ有る者・坊主・手負い右品々ハ領主或ハ御代官より先達で断証文これを取り、領主・役人ハ書替証文を以て相通し候。
一、夜中一切相通さず候」
とあり、明六つ(午前6時)に開門、暮六つ(午後6時)に門は閉鎖され、夜の通行は禁止となっていた。
(石碑記載文章より)

 

 
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