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愛知県新城市

大宮前激戦地

2014年08月16日

大宮前激戦地は武田軍右翼の部隊が激戦を繰り広げたところと思われます。長篠日記によると、武田軍右翼には、先陣が馬場美濃守信房、続いて真田源太左衛門信綱と弟の真田昌輝、第3陣が土屋昌次、第4陣が穴山信君、第5陣が一条信龍であったとのことです。馬場美濃守は約7百の手勢で、織田・徳川連合軍の佐久間信盛約6千の軍勢を敵の柵の中へ追い込みました。実は織田・徳川連合軍は武田軍に突撃させるために予め柵の外に陣取り、わざと柵の中に逃げ込んで武田軍を柵に引き寄せて鉄砲を打ちかける作戦だったそうなのですが、このとき馬場信房は敵を柵の中に追い込んだだけで柵際までは進まず、織田・徳川連合軍の作戦には乗らなかったとのことです。
その後馬場信房は丸山砦を占領し、次に馬場勢に代わって真田信綱・昌輝兄弟が突撃し、柵の一重を破りましたがその後討死。佐久間勢劣勢と見た織田信長は滝川一益と羽柴秀吉を大宮前の戦場に側面から攻撃させ、武田軍は敗退となったとのことです。
(長篠日記より)

大宮前激戦地は長篠・設楽原合戦の北側の主戦場になったところと思われます。武田側は馬場信房、真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次、穴山信君、一条信龍などで、一方織田・徳川連合軍側は、佐久間信盛、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、蒲生氏郷、森長可、水野信元、佐々成政、前田利家などそうそうたる陣容です。付近には丸山砦があり、ここから東側には真田兄弟の碑などがあり、逆に西側には羽柴秀吉陣地などがあります。


「たぐいなき騎馬隊倒す三千挺」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

 



2006年05月05日

大宮前激戦地は武田軍右翼の部隊が激戦を繰り広げたところと思われます。長篠日記によると、武田軍右翼には、先陣が馬場美濃守信房、続いて真田源太左衛門信綱と弟の真田昌輝、第3陣が土屋昌次、第4陣が穴山信君、第5陣が一条信龍であったとのことです。馬場美濃守は約7百の手勢で、織田・徳川連合軍の佐久間信盛約6千の軍勢を敵の柵の中へ追い込みました。実は織田・徳川連合軍は武田軍に突撃させるために予め柵の外に陣取り、わざと柵の中に逃げ込んで武田軍を柵に引き寄せて鉄砲を打ちかける作戦だったそうなのですが、このとき馬場信房は敵を柵の中に追い込んだだけで柵際までは進まず、織田・徳川連合軍の作戦には乗らなかったとのことです。
その後馬場信房は丸山砦を占領し、次に馬場勢に代わって真田信綱・昌輝兄弟が突撃し、柵の一重を破りましたがその後討死。佐久間勢劣勢と見た織田信長は滝川一益と羽柴秀吉を大宮前の戦場に側面から攻撃させ、武田軍は敗退となったとのことです。
(長篠日記より)

大宮前激戦地は長篠・設楽原合戦の北側の主戦場になったところと思われます。武田側は馬場信房、真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次、穴山信君、一条信龍などで、一方織田・徳川連合軍側は、佐久間信盛、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、蒲生氏郷、森長可、水野信元、佐々成政、前田利家などそうそうたる陣容です。付近には丸山砦があり、ここから東側には真田兄弟の碑などがあり、逆に西側には羽柴秀吉陣地などがあります。


2003年10月12日



「たぐいなき騎馬隊倒す三千挺」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

馬防柵の北端から更に北方に大宮前激戦地の石碑と古戦場いろはかるたの看板がありました。馬防柵から柳田前激戦地を通過して連吾川を渡って左折して北上し途中更に左折して砂利道になりますがしばらく進むとたどり着くことができます。

 

 
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