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愛知県豊田市

大沼城

2014年03月23日

大沼城は、文明年間(戦国時代初期)に木村東見入道安信が築いたとされる山城で、足助の真弓山城(足助城)や、近くの田代城などとともに足助七城のひとつに数えられていました。
遺構は、本曲輪と10ヶ所余の曲輪のほか、土塁、堀切、井戸跡などが、掘切を境としてかぎの手状に分布しています。
初代城主木村安信は信仰厚く、城の西麓に入宝山神宮寺を建てた後、天文2(1533)年に死去しました。2代新九郎信元のとき、天正2(1574)年4月<元亀2年とする説もある>、大沼城は甲斐の武田軍によって攻め落とされ、信元も討ち死にしました。
そして天正3(1575)年には、信元の養子松平親清(大給城主松平乗元の二男)が大沼城主となりました。親清は入宝山神宮寺を八沢山洞樹院と改めて菩提寺としました。親清の没後、天正11(1583)年嫡子の近正が後を継ぎ、徳川家康の旗下で軍功をたてました。そして天正18(1590)年家康の関東移封後、上州三の倉(群馬県)に5千石を賜って三河を離れました。大沼城はそのころ廃城になったと考えられています。
(看板資料より)

堀切

大沼城址と洞樹院
大沼城址 東大沼
大沼城は文明年間(1469〜1486)に木村東見入道安信が築き初代城主となる。天文元(1532)年城中で没し、嫡子新九郎信基が二代城主となる。元亀2(1571)年4月15日武田信玄が兵を起し天正2(1574)年4月14日勝頼に攻略され落城する。天正3(1575)年松平飛騨守近清城主となる。天正11(1583)年近清病死、その嫡子近正城主となり天正12(1584)年家康江戸城に入る。このとき近正は上州三の倉5千石をもらい大沼城を去り廃城となる。
洞樹院
大永年間(1521〜1527)に城主安信の創建で入宝山神宮寺として建立(天台宗)菩提寺とする。天文元(1532)年2月4日安信が焼失した本堂を再建恵信僧都作の仙像を本尊とし正恵が初代住職となる。
天正年中(1575)松平飛騨守近清が大沼城主となって浄土宗に改め八沢山洞樹院と改称し菩提寺とする。木村父子と松平近清城主三代は当寺に葬り位牌は安置されている。当寺が松平氏の定紋釘枝を使っているのはこの縁故であろう。
境内には五輪塔などの古石塔やこの地方ではめずらしい石造の五重塔がある。現本堂と山門は平成12(2000)年12月の再建第26世慧空代である。
(看板資料より) 

洞樹院



2003年10月11日

大沼城絵図


大沼城は、文明年間(戦国時代初期)に木村東見入道安信が築いたとされる山城で、足助の真弓山城(足助城)や、近くの田代城などとともに足助七城のひとつに数えられていました。
遺構は、本曲輪と10ヶ所余の曲輪のほか、土塁、堀切、井戸跡などが、掘切を境としてかぎの手状に分布しています。
初代城主木村安信は信仰厚く、城の西麓に入宝山神宮寺を建てた後、天文2(1533)年に死去しました。2代新九郎信元のとき、天正2(1574)年4月<元亀2年とする説もある>、大沼城は甲斐の武田軍によって攻め落とされ、信元も討ち死にしました。
そして天正3(1575)年には、信元の養子松平親清(大給城主松平乗元の二男)が大沼城主となりました。親清は入宝山神宮寺を八沢山洞樹院と改めて菩提寺としました。親清の没後、天正11(1583)年嫡子の近正が後を継ぎ、徳川家康の旗下で軍功をたてました。そして天正18(1590)年家康の関東移封後、上州三の倉(群馬県)に5千石を賜って三河を離れました。大沼城はそのころ廃城になったと考えられています。
(看板資料より)


洞樹院

大沼城址と洞樹院
大沼城址 東大沼
大沼城は文明年間(1469〜1486)に木村東見入道安信が築き初代城主となる。天文元(1532)年城中で没し、嫡子新九郎信基が二代城主となる。元亀2(1571)年4月15日武田信玄が兵を起し天正2(1574)年4月14日勝頼に攻略され落城する。天正3(1575)年松平飛騨守近清城主となる。天正11(1583)年近清病死、その嫡子近正城主となり天正12(1584)年家康江戸城に入る。このとき近正は上州三の倉5千石をもらい大沼城を去り廃城となる。
洞樹院
大永年間(1521〜1527)に城主安信の創建で入宝山神宮寺として建立(天台宗)菩提寺とする。天文元(1532)年2月4日安信が焼失した本堂を再建恵信僧都作の仙像を本尊とし正恵が初代住職となる。
天正年中(1575)松平飛騨守近清が大沼城主となって浄土宗に改め八沢山洞樹院と改称し菩提寺とする。木村父子と松平近清城主三代は当寺に葬り位牌は安置されている。当寺が松平氏の定紋釘枝を使っているのはこの縁故であろう。
境内には五輪塔などの古石塔やこの地方ではめずらしい石造の五重塔がある。現本堂と山門は平成12(2000)年12月の再建第26世慧空代である。
(看板資料より)

 

 
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