←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

愛知県豊田市

武節城

2014年03月23日

武節城
永正年間に田峯城主菅沼定信によって築かれ、天正18(1590)年最後の城主奥平信昌が家康に従って関東に転封になり廃城となった。その間約100年にわたって存在した城である。
信州と美濃の国境にあり、三河の最前線基地として狼煙によって敵の情勢を味方に伝えるという情報網の中心にいて重要な役割を果たし、戦乱の時代にあって戦火に明け暮れ、小さな平山城ではあったが武田、徳川にとって大変気になる存在の城であった。
今も城跡は二の丸、三の丸と階段状に下り、本丸の上にはかつての物見台や狼煙台の跡に八幡神社がある。周囲には十数か所の曲輪の跡があり、五百年前の空掘が当時の名残を留めている。
(看板資料より)

武節城址 稲武町指定史跡
この城は、名倉川を臨む断崖上にあり、段戸山系に続く尾根の先端を堀切って男山とし、これに主たる郭4、従たる小郭10数箇所を配した郡内では有数の平山城であります。麓には関屋、古町屋(市場)、姫井戸など当寺からの地名が残っています。
一名地伏城とも呼ばれるこの城は、永正年間に田峯の菅沼定信の支城として築かれ、菅沼十郎などの城代が置かれました。
弘治2年下条信氏の侵略を受けて激戦がありました。また、元亀2年、武田信玄の三河侵入のときは本城である田峯とともに戦わずしてその軍門に降りました。天正3年、長篠で大敗した武田勝頼はこの城で梅酢湯を喫し甲州に帰ったと伝えられています。越えて7月、酒井忠次に攻略され、奥平信昌の領に加えられましたが、天正18年、徳川家康の関東移封とともに廃城となりました。
(看板資料より) 

武節城址
別名地伏城とも呼ばれ、永正年間に田峯の菅沼定信により築城。弘治2(1556)年信州の下条氏の侵略を受ける。天正3(1575)年長篠の戦いで敗れた武田勝頼は、敗走の折り、この城で休息し、梅酢湯を喫して甲州に帰っていったと伝えられる。
同じ年、徳川家康の軍勢に攻められ、徳川方の領地となり奥平信昌に与えられる。天正18(1590)年、徳川家康の関東移封とともに廃城。
今でも麓には「大門」、「屋敷」、「古町屋」など当時の地名が残る。
(看板資料より)

外曲輪

武節谷合戦
弘治2(1556)年11月、信州の下条信氏に攻められ激しい合戦の末落城した。城下には姫が身を投げたという「姫井戸」の伝説がある。
(看板資料より)

武田の大軍が城下を通過
元亀2(1571)年4月、武田信玄が本格的な三河侵攻を開始、2万5千の大軍を率いて飯田から南下し、杣路峠を越えて城下に迫り、武節城は戦わずして武田の軍門に降った。信玄はさらに足助城を落とし、下山から作手へ登り亀山城を落とし、新城に降り野田城を攻め、吉田城を脅かして甲州へ帰った。
(看板資料より)

徳川信康の初陣
天正元(1573)年3月、徳川家康の長男信康が14才の初陣に武節城を攻めた。その時の模様は山岡荘八の小説「徳川家康」の中に詳しく書かれている。
(看板資料より)

武田勝頼武節城に泊まる
天正3(1575)年5月21日、長篠合戦に敗れた武田勝頼は、田峯城主菅沼定忠に伴われて敗走、田峯城に入ろうとしたが家臣の反逆にあって果たせず、やむなく段戸山を越えて武節城にたどり着き、一泊して自分の支配地である信州へ逃れた。
(看板資料より)


空掘

本丸と外曲輪の間に設けられた空堀は、築城から約5百年が経過してかなり埋まっており、当時の険阻な姿は見られないが、かつては外敵の侵入を防ぐ「空掘」として、城の防備に重要な役割を果たした名残を今に伝えている。
(看板資料より)

 



2004年12月12日

武節城址
別名地伏城とも呼ばれ、永正年間に田峯の菅沼定信により築城。弘治2(1556)年信州の下条氏の侵略を受ける。天正3(1575)年長篠の戦いで敗れた武田勝頼は、敗走の折り、この城で休息し、梅酢湯を喫して甲州に帰っていったと伝えられる。
同じ年、徳川家康の軍勢に攻められ、徳川方の領地となり奥平信昌に与えられる。天正18(1590)年、徳川家康の関東移封とともに廃城。
今でも麓には「大門」、「屋敷」、「古町屋」など当時の地名が残る。
(看板資料より)

武節城址 稲武町指定史跡
この城は、名倉川を臨む断崖上にあり、段戸山系に続く尾根の先端を堀切って男山とし、これに主たる郭4、従たる小郭10数箇所を配した郡内では有数の平山城であります。麓には関屋、古町屋(市場)、姫井戸など当寺からの地名が残っています。
一名地伏城とも呼ばれるこの城は、永正年間に田峯の菅沼定信の支城として築かれ、菅沼十郎などの城代が置かれました。
弘治2年下条信氏の侵略を受けて激戦がありました。また、元亀2年、武田信玄の三河侵入のときは本城である田峯とともに戦わずしてその軍門に降りました。天正3年、長篠で大敗した武田勝頼はこの城で梅酢湯を喫し甲州に帰ったと伝えられています。越えて7月、酒井忠次に攻略され、奥平信昌の領に加えられましたが、天正18年、徳川家康の関東移封とともに廃城となりました。
(看板資料より)

稲武町役場から道の駅へ向う途中のトンネルの上の山の部分が武節城になります。役場には誰もいなくて駄目でしたが道の駅には観光案内所もあったので、武田信玄ゆかりの史跡や、武節城のことについて聞いてみましたが、ここにいた方は詳しいことは分からないようで、何ヶ所かに電話で聞いていましたが、今日は大きな葬式があってみんなそれに参加していそうで会ってお話を聞くことはできませんでした。話によれば武田勝頼が長篠で大敗した帰路に武節に立ち寄ったことを由縁に勝頼に関わるお祭りを企画中とのお話を聞くことができました。こういう企画は是非実現に結び付けてもらいたいものです。ここでは場所だけ確認して早速現地に行ってみましたが、一番上まで車で行くことができるので楽チンでした。大きな駐車場とその上には神社があって、駐車場の隅に「武節城」の石碑が立っていました。幾つかの曲輪の跡のようなものも見受けられましたが、お墓や、ゲートボール場などになっており、住民の生活の一部になっているようでした。

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→