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千葉県大多喜町

大多喜城


2009年09月20日

大多喜城の歴史
上総大多喜城は、戦国時代に築かれ、小田原北条氏の滅亡に伴い、徳川四天王の一人である本多忠勝がこの地に十万石で封じられました。城主は本多氏三代のあと、阿部氏等の譜代大名が入りましたが、元禄16(1703)年の松平氏の入場以降は9代続き、最後の城主松平正質の代に明治維新を迎えました。
(看板資料より)


土塁

土塁は堀と共に城を守る大切な備えです。土塁は堀と組合せて作られ、堀を堀り上げた土で土塁を作る方法がとられています。土塁は城内が見えないように作られていました。勾配は敵が入りにくいように城の外側を急勾配に作ります。大多喜城ではこの本丸跡の周囲に土塁が見られます。
(看板資料より)


石垣

日本で最初の本格的な石垣造りの城は安土城で、それ以降、大名が城造りで最も力を入れるのが石垣造りです。石は一般的に安山岩・花崗岩・片麻岩が多く使われ、近くに良質な石がない場合は遠くから運んで造りました。石の積み方は、野面積み・打ち込みはぎ・切り込みはぎの三種類に大きく分けられます。当博物館の石垣は、野面積みと打ち込みはぎの中間の方法で造られています。
(看板資料より)


空掘

城には敵が攻めにくいように堀を作りました。堀のなかでも水のないものを空掘といいます。山城の堀は空掘が多く、平城は低い所に作られているためほとんどが水堀でした。
空掘の底は土や石なので、落ちると怪我をするため水堀よりかえって攻めにくいといわれています。大多喜城の空掘は西側の守りに多く作られています。
(看板資料より)


大多喜水道

城下町大多喜は、昔から良い飲み水に恵まれず、人々の苦労は絶えませんでした。最後の城主である松平(大河内)正質の頃ようやく水道の工事が具体化し、明治2(1869)年月に工事を始め、翌明治3年5月に完成しました。この水道によって、城下200戸が潤い、20ヘクタールの水田の灌漑が行われました。
(看板資料より)


当城は江戸時代に著された軍記物(『房総治乱記』など)によると、初めに築城したのは上総武田氏で、大永元(1521)年頃築城したといわれている。上総武田氏は、甲斐守護武田信満の子信長を祖とする。同氏は、鎌倉公方足利成氏の近臣として上総に入部し、真里谷城や長南城を拠点にして勢力を拡大していった。その子孫は上総国内の要所に城を築き、やがて上総一国をほぼ手中にし、当城もその拠点の一つとなった。当城に拠る武田氏は房総正木氏と抗争を続けていたが、天文13(1544)年に苅谷ヶ原(夷隅町苅谷)の戦いで正木氏に敗れると、正木時茂が当城に入城したという。
 この時茂は正木大膳の通称で名声は広く各方面に伝わり、活躍の様子も多く記録に残されている。その弟時忠は勝浦城に拠り、勝浦正木の祖となり、共に安房里見氏と同盟を結び勢力を伸ばしながらも、しだいに独立性を強めていった。時茂が永禄4(1561)年に没すると、その子信茂がその跡を継ぐが、同7年の国府台合戦で戦死したようである。そのため、まだ若年の憲時が跡を継ぐことになる。その後、天正8(1580)年に憲時は里見氏に反旗を翻すが、翌年里見義頼によって滅ぼされる。その後、義頼の次男別当丸が正木氏の名跡を継ぎ、大膳亮時茂(2代目)と名乗り城主として入城した。里見氏が正木氏を復興させたのは、正木氏の支配がすでに当地域周辺に根付いており、当地域を治めるためには、その家名及び時茂の名声が必要だったのであろう。このことから、当地域での正木氏の強固な支配や影響力がうかがえる。この正木氏時代に当城は大きく改修、拡張され、里見氏の東上総支配の重要拠点の一つとなった。特に、小田原北条方となった土岐氏の居城万喜城とは近接しており、常に緊迫した状況であったと思われる。
 天正18(1590)年、小田原合戦の後、里見氏は上総の所領を没収され、正木氏も同城を明け渡して里見氏の元に身を寄せる。そして、徳川家康の関東入国にともない、その重臣本多忠勝が10万石を与えられ同城に入城し、地名も「大多喜」と改め、城も近世城郭として整備されることになる。慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、忠勝が伊勢桑名に移ると、その次男忠朝が5万石を与えられ城主となる。元和元(1615)年、大阪夏の陣で忠朝が戦死すると、忠勝の甥政朝が入り、以後、阿部氏、青山氏、稲垣氏、松平(大河内)氏などが城主となり、徐々に規模を縮小していき、明治維新をむかえ廃城となった。
(図説 房総の城郭より)

大多喜城と上総武田氏の関係について少し補足します。今回訪れた大多喜城と上総武田氏とは直接関係することはなさそうです。日本城郭大系によれば、上総武田氏の一族である真里谷城主武田信興は里見氏の上総夷隅侵略に備えて、次男の武田信清をして夷隅郡小田喜郷に大多喜根古屋城を築きました。
その後、北条氏滅亡後関東に入国した徳川家康は本多忠勝に10万石を与え、大多喜根小屋城に入城したが、根古屋城の防備は近代戦にそぐわないので今の大多喜城が築城されたわけです。武田の史跡としては大多喜根小屋城に行くべきでした。

 

 
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