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群馬県高崎市

島名城

2012年12月24日

和田城の東5.2km、倉賀野城の北4kmの井野川北岸にある。長井豊前守政実は、浄法寺(藤岡市)の城主であったが、永禄13(元亀元、1570)年、小幡信尚と共に、武田信玄のために武蔵で八千貫の地を切り取り、三千貫文を与えられて武蔵に移ったが、信玄の死後ここに入った。政実の子信実、天正10(1582)年、北条氏に抗して越後に去り、城は廃された。この城は応永年間(1394〜1428)、島名伊豆守の創築といわれるが、北部の桜屋敷と呼ばれる郭がその館跡であろう。島名氏は武蔵児玉党である。
本丸は方100m、南面西寄りに「折」、南・東・北に虎口跡がある。東北部外掘の発掘調査が昭和51年に行われ、眼聖寺の土居は第二次築造と確認された。中心部も発掘調査を終わり多大の成果を収めた。
(日本城郭大系より)

日本城郭大系によると、本丸は八幡跡の近くにあるとのことでしたので八幡跡を探しました。眼聖寺や千手観音などの位置から考えても上の祠のようなものが八幡跡であると思われます。本丸はこの西側になるそうですが、一面畑となっていました。

 

 
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