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愛知県新城市

信玄塚

2013年07月07日

大塚

天正3(1575)年5月、戦いが終って、出沢の小屋久保に避難していた里人らは、帰ると累々と横たわる屍体の埋葬にあたった。この地に二つの塚があり、大塚は武田軍の、小塚は連合軍の戦没者葬ったものと言われている。また、武田軍の名だたる戦没武将は、戦死したそれぞれの地に埋葬されたという。『三州長篠合戦記』に信長は戦いの後、武田軍が陣地としていた東弾正山を訪れ、「討ち取った首を集め、うず高い塚を築いてその名を信玄塚と呼ぶように命じた」とある。偉大な武田軍の象徴としての信玄は武田軍の代名詞的に使われていたので、武田軍の塚を信玄塚と呼んだと考えられる。
大塚は高さ3メートル、径13メートルの円墳で、大塚に地蔵菩薩、小塚に観音菩薩の石碑が建っている。何れも宝暦7(1757)年の空道和尚の作である。このほかに空道の作の七基の石造と木造が遺っている。空道は幼名は鈴木仙之助、正徳年間現在の竹広字断上26に生まれ、設楽家に仕えていたが後に出家し、安永元(1772)年9月18日、大宮字宮ノ前の般若寺の裏山に自ら穴を掘って入定した。
承応2(1653)年、領主設楽市左衛門貞政、家臣丹沢惣兵衛之重は、大塚の松の根元の北面に、十三仏堂と大乗妙典千部漸読の供養塔を建てた。大塚の上に、凡そ樹齢390年の風雪に耐えた老黒松があった。しかし昭和39年9月に来襲した伊勢湾台風以降、樹勢が衰え、ついに同40年に枯死し、今はその枯死した樹骸をあらわにして倒れている。また小塚に生えていた小松も後を追うように枯死した。
(東三河の史跡めぐりより)


小塚

小塚は織田・徳川連合軍の戦没者を葬ったものであるといわれている。高さ1.5メートル、径3.6メートルの円墳で、その頂点に赤松、黒松が寄り添うように立っていた。赤松は昭和51年12月、雨降る夜に幹が裂け、55年4月供養のうえ切り倒された。また黒松も松喰い虫の被害に遭い、56年7月供養のうえ伐採された。その後、二代松が植えられた。塚の東面に空道和尚の作の観音菩薩石像がある。
(東三河の史跡めぐりより)


2013年設楽原決戦場祭りは9時30分から慰霊祭が始まるとのことでしたが、当日は早く着いてしまったため、信玄塚周辺の史跡探索をしました。信玄塚では慰霊祭の準備が進められていました。

 



2011年08月15日


愛知県指定無形民族文化財:信玄原の火おんどり

8月15日お盆の夜、大小2つの塚を持つ信玄原にて長篠合戦(天正3年=1575年)での戦死者の供養祭、「火おんどり」が行われている。戦国時代、武田対織田・徳川両軍の激戦地1つであった竹広。長篠合戦後、村人は戦没者を大・小2つの塚に手厚く葬った。が、その夏に、塚から群蜂が発生して人馬に害を与えた。村人はこの群蜂を、武田方の戦没者の亡霊と考え、霊たちを慰めるため、大施餓鬼とともに松明をともして供養したことが、火おんどりのはじまりとされている。
祭りの半月前から各戸で「タイ」と呼ばれる松明作りが始まる。タイはスノコに編んだ葦(ヨシ)の中にシダを詰めて、縄でしめて作られている。更に七五三縄をかけ、五色や白の幣を垂れて各戸の門口に立てかけて祭っておく。大きなものは高さ3メートル、周囲2メートル以上のものもある。祭りの当日夜になると、法被、鉢巻、猿股姿で竹広の旧家峯田氏宅に集まる。水垢離の後、峯田家主の起こした浄火を「お種」と呼ばれる3本のタイに移し、同家を出発。火踊坂を登り、途中、武田軍の戦死者、山県三郎兵衛昌景の墓前を通り、3本のお種は、坂上でタイの火を点じ信玄塚にくりこむ。そのタイの数は60〜70本にも及ぶ。
行列には先導に火元峯田氏、次に区長、囃子、タイと続き、大塚、小塚の周りを3回まわる。
そして太鼓や笛の音のテンポが早くなったのを合図に、一斉にタイを袈裟十字に振りかざし、「ヤーレモッセ モッセモセ…」と唱えながら、勇猛果敢に踊り狂う。
現在も竹広によって伝統が守り続けられている。
(新城市教育委員会パンフレットより)


2011年8月15日、念願の火おんどりに出かけることができました。19時半頃から盆踊りが始まり、我々も参加させていただいた。竹広の数え歌も何度か披露されていました。そして21時になると遠く南の方から松明が見えてきました。真っ暗な中に多くの松明が見えてくると神秘的でした。そして大塚と小塚の間を何度か回った後、タイを八の字に回転させた踊りが始まりました。その数の多さと火の迫力に圧倒されてしまいました。竹広の方のお話によると、火おんどりを行う青年団や少年達は連吾川の水でお清めをしているとのこと。このお清めをすることによって火傷にならないのだそうです。火おんどりは400年以上続いている行事ですが、太平洋戦争中に一時中断したことがあるらしく、その年は蜂が沢山発生してしまい、翌年から再び火おんどりが行われることになったそうです。また火おんどりが行われるときはほとんど雨が降らないのだそうです。そういえば今日も夕方にゲリラ豪雨のような激しい雨が降っていたのですがお祭りになると雨は止んでいました。またお祭りといっても屋台が出るようなものではなく、まさに神秘的なお祭りでした。

 



2006年05月05日



「大松小松信玄塚の供養塔」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

かるたでつづる設楽原古戦場によれば、長篠・設楽原合戦後、村人たちは信玄塚に2つの大きな穴を掘り、その中に死体を埋めて塚を作りそれぞれに松を植え、北の方を大松、南の方を小松と呼ぶようになったとのことである。この大松小松は信玄塚の象徴であったが、大松は昭和34年伊勢湾台風の被害を受け、その後衰えて5年後には枯れてしまったとのこと。また小松の方はもともと一対の夫婦松であったが昭和51年に雌松が枯れ、昭和56年に雄松が枯れてしまい、現在はともに2代目の松とのことである。また信玄塚には山梨県の人々によって建てられた宝篋印塔、供養塔や、地元の人々によって建てられた四百年祭供養塔などがある。


大塚

大乗妙典一千部供養塔
歴史読本「長篠の戦い」によれば、「南無妙法蓮華経法界含霊」とあり、砂岩角柱、笠形をのせた碑。銘によると承応2(1653)年8月、領主設楽市左衛門貞政と家臣丹沢惣兵衛之重の願主とある。大塚の上にある。


小塚

金光明最勝王経碑
歴史読本「長篠の戦い」によれば、碑面に「奉納金光明最勝王経」とあり、右側面に「文化元甲子年林鐘吉旦」、左側面に「大浮謹書写」と刻された石柱とのこと。小塚の上にある。


四百年祭供養塔

歴史読本「長篠の戦い」によれば、昭和50年2月1日、新城市長篠の戦い四百年祭奉斎会により建てられ、鎌倉期の宝塔を模したものとのこと。


長篠合戦陣戦歿者供養塔

歴史読本「長篠の戦い」によれば、昭和13年5月21日に山梨県長篠役甲軍戦没将士慰霊塔建設会により建てられたとのこと。



「信玄のゆかりつきせぬこの地名」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)
かるたでつづる設楽原古戦場によれば、長篠・設楽原合戦で破れたのは武田信玄ではなく武田勝頼であるのに、信玄塚という名称が残っている理由について、武田信玄は死後もまだ人々に恐れられており、この戦いで武田軍を敗走させた織田信長はこの機会をとらえて、「信玄倒れる」の知らせが西国に伝わるであろうことを計算して信玄塚と名付けたのだそうである。いずれにせよ、信玄の名前は武田軍の代名詞だったのでしょう。


「不思議にも蜂の大群姿消す」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)
かるたでつづる設楽原古戦場によれば、合戦直後の6月に信玄塚に蜂の大群が出現して村人や旅人を困らせたとのこと。村人は、武田軍の死者の霊が蜂となって現れたと考え、勝楽寺三祖玄賀和尚の意をくんで大施餓鬼を営み、夜には松明をたいて供養を行なったところその後蜂は出現しなくなった。これが火おんどりの始まりであるとのこと。


「モッセモッセヤーレモッセの火踊り」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)
愛知県ビデオコンテンツ・信玄原の火おんどり

 



2003年10月12日

大塚

天正3(1575)年、織田、徳川連合軍と武田軍の間で戦われた設楽原の戦いは連合軍側の大勝に終った。この戦いで両軍あわせて1万6千もの戦死者があったといわれている。戦場のかたづけに従事した竹広の村人は、この地に戦死者をねんごろに葬り、2つの塚を築いて弔った。これが「信玄塚」である。
当時すでに亡かった信玄の名を冠して、信玄塚と呼ばれたのは、いかに信玄の偉名が大きかったかを物語っている。毎年8月15日の夜この地で戦死者の霊を弔う「火おんどり」が行われる。60本から70本のアシとシダで作った火のついた大松明が勇壮にうち振られる様は、戦場で苦闘した武田軍の様子を思い起させる。
(看板資料より)


「そこかしこ顕彰碑たてし牧野文斎」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

小塚

長篠合戦陣戦歿者供養塔


1999年11月23日

以前から設楽原に「信玄塚」というのがあるのは知っていましたが、なぜ信玄はこの合戦には出ていないのに信玄塚というものがあるのだろうと思っていたのですが、ここは設楽原合戦で戦死した人達を埋葬し、武田の時代は終わったことを宣言するために信玄塚と名づけられたそうである。「大塚」と「小塚」があった。

 
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