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長野県佐久市

新海三社神社

2014年05月03日

拝殿

当社は佐久地方開拓の祖神である、「興波岐命」と御父神「建御名方命」(諏訪さま)、御伯父神「事代主命」(恵比寿さま)、「誉田別命」(八幡さま)の四神をまつる佐久三庄三十六郷の総社である。
古来、武将をはじめ人々の崇敬あつく、源氏、足利氏、田口氏、武田氏、徳川氏、大給氏らが社領寄進・神殿修理再建等を沙汰している。わけても源頼朝は源氏の祖神「誉田別命」をまつるべく沙汰し、甲斐源氏の流れをくむ武田信玄は永禄8(1565)年上州箕輪城攻略の際、戦勝祈願文を奉り見事勝利をおさめている。
三重塔(嘉祥2年=849年)、東本殿(室町時代・信玄再興)は重要文化財、御魂代石は重要文化財指定申請中である。
(看板資料より)


東本社

東本社(重要文化財・室町時代)
御祭神は建御名方名の御子「興波伎命」、命は佐久地方開拓の祖神として崇敬され、万事、万物の新生、形成、発展、探究にあらたかな御神徳をそなえられて居られる。向拝頭貫の木鼻が動物形を意図していること、母屋頭貫の左右の木鼻に笹の葉の薄肉彫りがあるところ等に特徴がみられる。


三重塔

新海神社三重塔(重要文化財)
新海三社神社の神宮寺の塔として建立され、明治維新の廃仏毀釈の際には神社の宝庫として破却をまぬがれた。風澤の銘により永正12(1515)年の建立と考えられる。様式は和様を主としながらも随所に禅宗様が取り入れられており、初重と二、三重の垂木の方向の違いなどにそれがみられる。


中本社と西本社



2002年10月14日

当社は佐久地方開拓の祖神である、「興波岐命」と御父神「建御名方命」(諏訪さま)、御伯父神「事代主命」(恵比寿さま)、「誉田別命」(八幡さま)の四神をまつる佐久三庄三十六郷の総社である。
古来、武将をはじめ人々の崇敬あつく、源氏、足利氏、田口氏、武田氏、徳川氏、大給氏らが社領寄進・神殿修理再建等を沙汰している。わけても源頼朝は源氏の祖神「誉田別命」をまつるべく沙汰し、甲斐源氏の流れをくむ武田信玄は永禄8(1565)年上州箕輪城攻略の際、戦勝祈願文を奉り見事勝利をおさめている。
三重塔(嘉祥2年=849年)、東本殿(室町時代・信玄再興)は重要文化財、御魂代石は重要文化財指定申請中である。
(看板資料より)


東本社(重要文化財・室町時代)
御祭神は建御名方名の御子「興波伎命」、命は佐久地方開拓の祖神として崇敬され、万事、万物の新生、形成、発展、探究にあらたかな御神徳をそなえられて居られる。向拝頭貫の木鼻が動物形を意図していること、母屋頭貫の左右の木鼻に笹の葉の薄肉彫りがあるところ等に特徴がみられる。


新海神社三重塔(重要文化財)
新海三社神社の神宮寺の塔として建立され、明治維新の廃仏毀釈の際には神社の宝庫として破却をまぬがれた。風澤の銘により永正12(1515)年の建立と考えられる。様式は和様を主としながらも随所に禅宗様が取り入れられており、初重と二、三重の垂木の方向の違いなどにそれがみられる。


ここは初めて来たところですが、なんと武田信玄にゆかりある神社でした。当時信玄は北条氏康とともに関東に出陣していましたが永禄8年2月に上野箕輪城を十日以内で攻略できるよう新海大明神と諏訪神社上社に願文を奉り、その後5月に倉賀野城、翌年9月には箕輪城を陥れている。
場所は龍岡城からちょっと奥に行ったところなので車ならすぐにたどり着きます。入口の鳥居には大きなしめ縄?が絡められており印象的でした。境内にはいかにも古そうな巨木が多く歴史を感じさせます。


上宮寺

 

 
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