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長野県佐久市

上宮寺

2014年05月03日

真言宗智山派
新海山上宮寺の由来
当山は口伝によると西暦600年頃上宮太子の開基とされ、旧寺名を新海山上宮本願院神宮密寺と号しました。当山は本来新海神社の東に位置し、神社の別当寺でありました。本尊は阿弥陀如来であります。明治の初め神仏分離令により現在地に移転しました。なお、本堂内に安置されている千手観音は佐久33観音霊場第12番札所の観音であります。新海神社境内の三重塔(国重要文化財)は、神宮寺の塔として建立され、寺院移転の際神社の宝物庫として残されたものであります。相輪の風鐸に嘉祥2(1894)年とあり、その時代に建立されたものと思われます。
(看板資料より)


上宮寺の鐘

武田信玄が箕輪城を攻める時、田口の新海様に戦勝祈願をこめ神宮寺の鐘を借りて陣鐘として持って行ったが、あまり使ったのでこわれた。そこで箕輪から分捕ってきたものを代わりにあげた。これが田口村上宮寺の鐘である。
(長野県の武田信玄伝説より)


仁王像は木造。寄木造り彫眼であります。作者製作年代はいずれも不詳でありますが県史刊行会や佐久市の仏師らの鑑定によれば「室町時代後期の製作で京都慶派の流れを汲む地方仏師の作であろう」とのことであります。
(看板資料より)

 



2007年10月07日

真言宗智山派
新海山上宮寺の由来
当山は口伝によると西暦600年頃上宮太子の開基とされ、旧寺名を新海山上宮本願院神宮密寺と号しました。当山は本来新海神社の東に位置し、神社の別当寺でありました。本尊は阿弥陀如来であります。明治の初め神仏分離令により現在地に移転しました。なお、本堂内に安置されている千手観音は佐久33観音霊場第12番札所の観音であります。新海神社境内の三重塔(国重要文化財)は、神宮寺の塔として建立され、寺院移転の際神社の宝物庫として残されたものであります。相輪の風鐸に嘉祥2(1894)年とあり、その時代に建立されたものと思われます。
(看板資料より)

田口の新海三社神社の近くに上宮寺というお寺があり、そこには武田信玄にまつわる鐘があるとのことでしたので今回立ち寄ってみました。田の口城新海三社神社には過去何度か来たことがありましたが、近くにこんなお寺があったとは気がつきませんでした。蕃松院から新海三社神社を経て現地に向いましたが、以前もそうでしたが新海三社神社の旗があまりにも巨大で一瞬タイムスリップしてしまったかのような錯覚を感じてしまいました。今回の目的地である上宮寺はなかなか場所が分かりづらく途中で道を聞きながらなんとかたどり着けました。鐘は本堂の前にあり、思ったより小さなものでした。現地の説明文によると武田信玄ではなく田口長能が納めたものである旨書かれていました。また鐘楼の右側には立派な仁王様もありました。


上宮寺梵鐘(長野県宝指定)

戦前は国認定の重要美術品でありましたが現在は、県宝指定で南北朝初期の作とあり、銘文によると暦応元(1238)年上州東覚寺の為に作られ、天文12(1543)年田口城主田口長能が東覚寺より当寺に運び納められたとあり、追刻名には「奉寄進新海大明神御宝前」とあります。
(看板資料より)

上宮寺の鐘
武田信玄が箕輪城を攻める時、田口の新海様に戦勝祈願をこめ神宮寺の鐘を借りて陣鐘として持って行ったが、あまり使ったのでこわれた。そこで箕輪から分捕ってきたものを代わりにあげた。これが田口村上宮寺の鐘である。
(長野県の武田信玄伝説より)


金剛力士像(仁王)
 

仁王像は木造。寄木造り彫眼であります。作者製作年代はいずれも不詳でありますが県史刊行会や佐久市の仏師らの鑑定によれば「室町時代後期の製作で京都慶派の流れを汲む地方仏師の作であろう」とのことであります。
(看板資料より)


新海三社神社
田の口城

 

 
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