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長野県白馬村

塩島城

2009年05月03日

史跡塩島城址
戦国時代、信州の地は上杉・武田両氏の激突する舞台となったが、安曇地方も両勢力の争いの余波を受けて戦乱が絶えなかった。
塩島城は、姫川を挟んで三方が断崖をなす要害の地を占め、戦略的には海陸物資交易の路線である千国街道を押さえ四ヶ庄平を俯瞰する絶好の位置に置かれている。
戦国期の典型的な山城として、空濠、曲輪、馬場跡などに往時の遺構を偲ぶことができる。
弘治元(1555)年信玄配下の武将山県昌景によって攻められ飯森城などと共に落城した。最後の城主を塩島但馬守祐輝といった。
(看板資料より)

塩島城から鹿島槍ヶ岳と五竜岳

塩島城の話
戦国時代に甲斐の武田信玄は武将を遣わして各地を攻略したが、その四天王の一人である山県昌景は、美麻村千見の大日方城を落し、神城村に入って飯田城を陥れた。仁科氏の弟十郎盛春は逃れて上杉謙信に投ずる時、この城の城主塩島勝雄は神城村飯田にいた昌景のもとに呼び寄せられた。勝雄は正輝以来信玄の配下となっていて、二心のない由を申し述べた。しかし武田方の間者が塩島城の様子を探りに出たところ、服従はおろか兵糧を盛に城内に運び込んでいるのを見届けたので、早速その旨を復命した。これを聞いた昌景は表面には歓待の態度を装い、勝雄を欺いて入浴させ、浴室で槍ぶすまの惨殺を行った。時は弘治2(1556)年8月2日、場所は正命寺ということになっている。なお塩島城の落ちたのは8月25日となっているが、夜討ちをされ、付近にあった寺や城主に関係ある主な家々は皆焼き払われてしまった。勝雄の弟祐輝は越後に逃れて上杉謙信に拠り、その弟昌賢は幼かったので、乳母と二人の家来に伴われてひそかに東の山中に逃れ、塩島氏の領地川中島方面に身を潜めたが、後になって信玄が塩島氏にさしたる反抗心がなかった事を知り、昌賢を川中島から招き寄せて塩島の旧領地を安堵し、塩島家を復興させたという。
(北安曇郡郷土誌稿より)


日光寺跡

戦国争乱期、武田信玄配下の勇将山県昌景によって塩島城攻略の際焼き払われたと伝えられる。寺歴の詳細については不明であるが、塩島区の氏神である。切久保諏訪神社には、室町時代初期の至徳3(1386)年「日光鰐口」刻印された円型鉄製の鰐口が保存されている。明治期に本堂の土台と思われる材が掘り出されている。
(看板資料より)


偶然交差点で止まったところで塩島城の看板を見つけました。塩島城という城は知りませんでしたが矢印の方向に向って行きました。南口から入っていきました。入口のところで教えてくれたご婦人が山城という単語を使っていたのですが、遊歩道を歩いて行くとなるほど山城といってもおかしくないくらいの階段を登っていきます。しかも思ったより規模が大きくて驚きました。また所々から北アルプスの山を見ることができる場所もありました。早歩きで見てまわりましたが30分以上かかってしまいました。

 

 
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