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愛知県新城市

鳥居強右衛門の碑

2014年08月15日

鳥居強右衛門の墓がある新昌寺は元亀元(1570)年に創立され、はじめは喜船庵と称し、万治3(1660)年に新昌寺と改められました。天正3年6月16日に本葬が行なわれ、鳥居強右衛門の遺骸は新昌寺にある鳥居強右衛門の墓の場所に埋められました。その後慶長8年に鳥居強右衛門の墓は甘泉寺に移転することになり五輪塔や、白骨も掘り起こされて持っていった。これは鳥居強右衛門の子孫が作手城主松平忠明の家老として作手城に詰めることになり、甘泉寺を菩提寺としたからである。
その後この新昌寺の墓は廃墟となっていましたが、約160年後の宝暦13(1763)年に石碑が建立され復興されました。更に約150年後の大正9(1920)年に拡張工事が行なわれて現在に至っている。現在の石碑は宝暦13年に復興された時の石碑です。
(烈士鳥居強右衛門とその子孫より抜粋)

 



2012年05月04日

鳥居強右衛門勝商の碑
天正3年5月、武田軍に包囲された長篠城を抜け、岡崎の家康に救援を求めての帰路この地で捕らわれ磔にされた。
(戦国の陣没将士墓苑記載文章より)

鳥居強右衛門の碑は、新東名工事のため新昌寺本堂裏に移設されていました。鳥居強右衛門の碑の横になります。すぐ後ろには新東名が開通する予定のようで工事が進められていました。

 



2006年05月06日

鳥居強右衛門の墓がある新昌寺は元亀元(1570)年に創立され、はじめは喜船庵と称し、万治3(1660)年に新昌寺と改められました。天正3年6月16日に本葬が行なわれ、鳥居強右衛門の遺骸は新昌寺にある鳥居強右衛門の墓の場所に埋められました。その後慶長8年に鳥居強右衛門の墓は甘泉寺に移転することになり五輪塔や、白骨も掘り起こされて持っていった。これは鳥居強右衛門の子孫が作手城主松平忠明の家老として作手城に詰めることになり、甘泉寺を菩提寺としたからである。
その後この新昌寺の墓は廃墟となっていましたが、約160年後の宝暦13(1763)年に石碑が建立され復興されました。更に約150年後の大正9(1920)年に拡張工事が行なわれて現在に至っている。現在の石碑は宝暦13年に復興された時の石碑です。
(烈士鳥居強右衛門とその子孫より抜粋)

鳥居強右衛門の墓は林の中にあって、参道のような感じのところを歩いて行くことができます。静かなところです。大正9年に拡張された墓域は大きくて立派でした。中央には頭部が割れている石碑がありましたがこの石碑は宝暦13(1763)年に建立されたものなのだそうです。
なお、鳥居強右衛門の墓は慶長8年に甘泉寺に移転したとのことですが、現地にある設楽原をまもる会の看板によると、「鳥居強右衛門勝商の碑」となっていました。

 



2003年10月12日

鳥居強右衛門の墓は、新昌寺という寺にありました。そのお墓は武田信玄や上杉謙信の墓よりも立派でした。


甘泉寺

 

 
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