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長野県茅野市

諏訪氏安国寺御廟所

2014年05月18日

諏訪頼重が天文11(1542)年に武田氏に滅ぼされて以来、諏訪は武田の統治するところとなった。頼重の叔父諏訪満隣は剃髪して僧体となり、竺渓斉と号して安国寺に諏訪氏の系図と位牌を託し、安国寺や湖南の竜雲寺等にひそみ、武田氏支配の40年間を耐えて諏訪氏再興の機を待っていた。天文14年に満隣の第二子頼忠は上社大祝となり、天正11年に徳川家康から旧領を安堵されるまで続いた。
この御廟所の碑には「安国寺殿竺渓中派大庵主」と刻し、一つには「桂巖芳樹大姉」と刻してある。これは満隣夫妻の法号で、他の一つは満隣の兄頼隆の供養墓碑である。江戸時代に諏訪氏が建立して祭祀が行なわれ、御廟所の修築に嘉永5年から資金として150両と年々蔵方から米25俵の寄進を受けて来た。
昭和34年の台風で廟屋は倒れたが、墓碑と宝篋印等二基が往時の面影を止めている。
(看板資料より)

四百年忌碑建立の記
世は戦国、諸国に群雄割拠して争乱の渦中にありし天文11年、甲斐の武田晴信は天下制覇をねらい、先ず諏訪攻略にかかり、惣領家の当主頼重公は自刃、滅亡の事態となる。
この危急存亡のとき諏訪満隣公は名族諏訪氏の血脈を守り、その保持に心を砕き自らは剃髪して仏門に入り竺渓斎と号す。
頼豊、頼辰の2子は武田方に働かせ、それぞれ討死し、その間深慮遠謀して苦節40年、やがて武田氏滅亡、織田信長また本能寺に討たれるや、満隣公は直ちに次男頼忠をして決起させ茶臼山城を奪回し、ここに近世諏訪氏再興の道を切り開く。
それを見届けるかのように天正10年10月朔日、満隣公はこの地に没し、同夫人、兄頼隆公と共にこの廟所を葬地となす。以降四百年の星霜を経て、なお満隣公の忍耐、智略、勇断の功績をたたえ、後世に伝えんがため、ここに諏訪家の方々はじめ地元篤志の人々の協力により本碑を建て供養す。
(石碑記載文章より)

 



2005年09月11日

諏訪頼重が天文11(1542)年に武田氏に滅ぼされて以来、諏訪は武田の統治するところとなった。頼重の叔父諏訪満隣は剃髪して僧体となり、竺渓斉と号して安国寺に諏訪氏の系図と位牌を託し、安国寺や湖南の竜雲寺等にひそみ、武田氏支配の40年間を耐えて諏訪氏再興の機を待っていた。天文14年に満隣の第二子頼忠は上社大祝となり、天正11年に徳川家康から旧領を安堵されるまで続いた。
この御廟所の碑には「安国寺殿竺渓中派大庵主」と刻し、一つには「桂巖芳樹大姉」と刻してある。これは満隣夫妻の法号で、他の一つは満隣の兄頼隆の供養墓碑である。江戸時代に諏訪氏が建立して祭祀が行なわれ、御廟所の修築に嘉永5年から資金として150両と年々蔵方から米25俵の寄進を受けて来た。
昭和34年の台風で廟屋は倒れたが、墓碑と宝篋印等二基が往時の面影を止めている。
(看板資料より)

四百年忌碑建立の記
世は戦国、諸国に群雄割拠して争乱の渦中にありし天文11年、甲斐の武田晴信は天下制覇をねらい、先ず諏訪攻略にかかり、惣領家の当主頼重公は自刃、滅亡の事態となる。
この危急存亡のとき諏訪満隣公は名族諏訪氏の血脈を守り、その保持に心を砕き自らは剃髪して仏門に入り竺渓斎と号す。
頼豊、頼辰の2子は武田方に働かせ、それぞれ討死し、その間深慮遠謀して苦節40年、やがて武田氏滅亡、織田信長また本能寺に討たれるや、満隣公は直ちに次男頼忠をして決起させ茶臼山城を奪回し、ここに近世諏訪氏再興の道を切り開く。
それを見届けるかのように天正10年10月朔日、満隣公はこの地に没し、同夫人、兄頼隆公と共にこの廟所を葬地となす。以降四百年の星霜を経て、なお満隣公の忍耐、智略、勇断の功績をたたえ、後世に伝えんがため、ここに諏訪家の方々はじめ地元篤志の人々の協力により本碑を建て供養す。
(石碑記載文章より)

干沢城に登った際に、本郭にあった案内図に「諏訪満隣御廟所」と書かれていた場所があったのでこれを探しました。最初は山の中にあるのかと思っていたのですが、付近を何度も探し回った結果、東洋精機工業のすぐ横にそれらしきものがあり、諏訪氏安国寺御廟所というものでした。石碑に書かれている文章によれば諏訪満隣がこの地で没し、夫人、兄とともにこの地に葬られているとのことでした。

 

 
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