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長野県茅野市

干沢城

2014年05月18日

樋沢城址(干沢城)
上原城・桑原城と上川沖積地をはさんで鼎立し、安国寺城とも呼ばれて、宮川を裾にひかえた極めて要害な山城である。諏訪大祝の居館であった前宮を扼し、古くから前宮を守るための重要な砦として利用されたものであろう。
文明15年正月、大祝継満が上原城主諏訪政満一族をみな殺しにして惣領家の乗取りを計り、樋沢城にたてこもったが、惣領家を支持する一族や神長官に攻められて高遠に逃れたが、病床にあった父頼満は討たれた。又天文11年に武田勢が諏訪に攻め入ったときは、樋沢城は武田氏に呼応する高遠勢に占領され、安国寺は火の海になる等、戦国時代を通じて数々の戦さに利用された。本丸・曲輪・二の丸・三の丸・カラボリの跡が僅かに当時の面影をしのばせている。
(看板資料より)

干沢城跡主郭

干沢城案内図

干沢城は戦国時代まで諏訪氏一族の山城である。別称樋沢城、安国寺城ともいわれ、上社前宮に隣接して、古くから諏訪氏大祝家の居城とされる。標高は995mである。築城年代は不明であるが、文明の頃には麓には大町があり、宮川が山裾を流れていたという。この干沢城は、文明15年の上社内訌の時と天文11年の武田氏侵攻の時に戦場となっている。
城地は南北550mにおよび、諏訪地方では大規模な郭群をもっている。大きく主郭・二の郭・三の郭・四の郭・長林の砦に分けられ、連郭式の縄張りで、これを取り巻いて大小の郭と空堀が残されている。
遺構は後世の耕作により大きく破壊されているが、それでもなお空堀や戦闘用の小石の堆積、郭配置に昔日の面影を残している。
(看板資料より)

二の郭

三の郭

空掘

四の郭



2005年09月11日

干沢城跡主郭

干沢城案内図

干沢城は戦国時代まで諏訪氏一族の山城である。別称樋沢城、安国寺城ともいわれ、上社前宮に隣接して、古くから諏訪氏大祝家の居城とされる。標高は995mである。築城年代は不明であるが、文明の頃には麓には大町があり、宮川が山裾を流れていたという。この干沢城は、文明15年の上社内訌の時と天文11年の武田氏侵攻の時に戦場となっている。
城地は南北550mにおよび、諏訪地方では大規模な郭群をもっている。大きく主郭・二の郭・三の郭・四の郭・長林の砦に分けられ、連郭式の縄張りで、これを取り巻いて大小の郭と空堀が残されている。
遺構は後世の耕作により大きく破壊されているが、それでもなお空堀や戦闘用の小石の堆積、郭配置に昔日の面影を残している。
(看板資料より)

樋沢城址(干沢城)
上原城・桑原城と上川沖積地をはさんで鼎立し、安国寺城とも呼ばれて、宮川を裾にひかえた極めて要害な山城である。諏訪大祝の居館であった前宮を扼し、古くから前宮を守るための重要な砦として利用されたものであろう。
文明15年正月、大祝継満が上原城主諏訪政満一族をみな殺しにして惣領家の乗取りを計り、樋沢城にたてこもったが、惣領家を支持する一族や神長官に攻められて高遠に逃れたが、病床にあった父頼満は討たれた。又天文11年に武田勢が諏訪に攻め入ったときは、樋沢城は武田氏に呼応する高遠勢に占領され、安国寺は火の海になる等、戦国時代を通じて数々の戦さに利用された。本丸・曲輪・二の丸・三の丸・カラボリの跡が僅かに当時の面影をしのばせている。
(看板資料より)

戦闘用の小石の堆積

干沢城へ行くには、まず安国禅寺に行くことです。安国禅寺の向かいにバス停がありますが、そこに干沢城への案内が書かれているのでその案内に従って右側の細い道に入って行くと、ちょうど杖突峠に向かう高架橋の下あたりがちょうど登り口になります。ここに車を止めて、靴を履き替え、膝のサポーターを両足に装着して登り始めました。登りはじめてすぐに安国寺院墓所がありました。更に登って行き、何かの通信施設が左側に見えたあたりで再び干沢城の案内板が出てきました。ここから右側の斜面を道に沿って登っていくと主郭にたどり着くことができました。登山の準備をした割には簡単に主郭に着いてしまいました。その後、更に奥に各郭が続いていて、ちょうど案内図に記載されていた場所に上の写真のような戦闘の小石の堆積もありました。更に進めば諏訪大社上社前宮まで行かれるとのことでしたが、雨も降って来たので途中で断念しました。

 



2005年08月27日

古代より前宮を守る砦としてつくられ上社大祝諏訪氏の拠城であった。支城としては東に駒形城、西に武居城、荒城、大熊城、眞志野城、有賀城、小坂城、花岡城などがあり、諏訪の代表的山城で本丸、二の丸、三の丸、空濠、曲輪、石塚の跡を残している。実戦も幾度かあり、文明15(1483)年、前宮神殿の変で上社同族争いのとき、またその翌年逃亡した継満逆襲のとき、さらに戦国時代になると武田晴信の諏訪攻略に呼応した高遠頼継が杖突峠を攻め下って占領、その後武田勢との安国寺門前の大激戦で兵火にあった。
(看板資料より)

諏訪大社上社前宮付近から杖突峠に向かう国道256号線を上り始めてすぐにトンネルがありますが、その手前の左カーブのところの右側に車を止めることができるスペースがあります。高遠に行く際に何度も通ったところで見慣れたところでしたが今回初めて城址の案内板を見つけました。Uターンして車を止めて案内板を読みましたが、その内容は上記の通りです。ここは麓の案内板であり、別途城址があるとのことなので後日また訪れたいと思います。


上原城

 

 
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