←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県浜松市

只来城

2005年02月12日

天竜市内から国道362号線で春野町方面に進み、只来のトンネルの手前を右に曲って旧道を少し進んでいき、東光寺手前付近で農作業をしていた方に只来城の場所を尋ねました。地元で言われている只来城の場所はトンネルの上ではなくて、全く逆方向(西南方向)の山の山頂(上の写真の中央少し高くなっている所)とのことでした。只来から登る道もあるらしいのですがかなり悪い道なので国道を天竜市内方向に戻って相生橋から登っていく林道があるのでそこを登っていけばたどり着けるとのアドバイスをいただきました。私の車を見て「あれは4駆だろ!それなら行かれるよ!」と言ってくれました。相生橋まで戻って狭い入口から林道を進みました。途中から砂利道になりましたが思ったほどの悪路ではありませんでした。一番標高が高いところを通り過ぎるとどんどん下ってしまうので途中で戻り、少し横にそれた道を歩いて行ってみたところ、大きな谷があって木も伐採されていて見晴らしの良いところ(下の写真)に出ました。結局どこが城跡なのか分かりませんでしたが只来城の近くまではたどり着けたのではないかと思います。

只来城がいつ頃誰によって構築された城砦であるか不明であるが、「浜松御在城記」には、「信玄、甲州ヨリ遠州犬井秋葉口ヨリ発向、犬井ノ天野宮内右衛門藤秀ヲ為案内者、多々羅江(只来)・飯田ノ両城ヲ攻取、矢野ヲ遠州定番ニ云々」とあって、元亀3(1572)年10月、武田信玄が遠州侵攻の折、犬居城の天野氏の案内によって一部隊が只来城を攻略したことが明らかであるので、既に当時只来城が存在していたことは確実である。
その後、只来城は天正3(1575)年頃まで武田氏の属城として機能していた形跡はある。(城番が送り込まれ、天正元年には武田勝頼の巡視もあった)、しかし同年中に、光明城と二俣城が徳川家康の手によって奪回されたので、同城も恐らくはその前後の時期に攻略されたものと思われる。従って、同城が廃城になったのはその時か、あるいは武田氏が滅亡する天正10(1582)年までの間であろう。城跡は二俣城より北東へ5km程行った二俣川上流左岸の山上に位置し、眼下に只来部落が川沿いに展開し、部落の背後は光明城のある光明山である。
現在城跡には、腰曲輪、掘切以外はっきりした遺構は残っていないが、それは只来城が複雑で険峻な自然地形を利用した簡単な繋ぎ城で、人工構築物を当初から不要としたからであろう。当城は二俣川を挟んで光明城と対峙した標高270m程の山頂に立地して四周への眺望はよく、二俣城か光明城(あるいは犬居城)の出城として構築された可能性がある。事実、城内の一角を二俣城と犬居城を結ぶ尾根道が通過しており、城が高所に立地しながら交通の便が以外に良いことがわかる。附近の関連地名に兵島、刀淵、峯屋敷、名古山等がある。
(静岡県文化財保存協会:静岡県の中世城館跡より)


二俣城
光明城(高明城)
犬居城

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→