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静岡県浜松市

高根城

2012年02月12日

高根城概略図

高根城公園案内図

高根城は遠江最北端に位置する山城で、標高420m・比高150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれている。城址からは水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことが出来る。高根城はこの1本の主要街道を押さえることと、信濃国境警備を目的として築かれた城である。
城は山頂部に本曲輪・二の曲輪・三の曲輪を南北に配し、各曲輪には堀切が設けられている。南端部に城域を区切るために真中に土塁を挟んだ二重堀切が設けられ北側堀切は三の曲輪を取り巻くようにU字を呈している。城の東西に位置する崖地形を生かし、巧みに堀切を取り入れたコンパクトな姿は、戦国期の形態をよく残す。
城の創築は、出土遺物から15世紀前半、地元国人領主奥山氏が築いたと考えられる。その後、今川氏親等から安堵状を得ているため15世紀末頃から今川配下に組み入れられたと思われる。奥山支配は今川家の没落と、武田氏・徳川氏の台頭があった永禄年間後半頃に大きく変化することになる。「遠江国風土記伝」によると、永禄年中(1558〜70)に、信州の遠山土佐守に攻められ落城したと伝わる。永禄12(1569)年には、今川氏真・徳川家康双方から所領安堵状を、元亀3(1572)年には武田信玄からも安堵状を得ている。遠州?劇の頃、奥山氏内部で、今川・徳川・武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、最終的に傍系が武田配下に組み込まれた可能性が高い。
元亀3年8月には、武田軍が在番することが可能な城となっていたことが、高遠城の保科筑前守に対した武田信玄の28カ条の軍役条目から判明する。天正4(1576)年遠江から武田勢力が一掃される。高根城も、この時点で廃城となったと推定される。現在見られる高根城は、出土遺物やその構造から、元亀2年〜天正4年の間に、武田氏の手によって、現在見られる姿に大きく改修されたのである。
江戸時代に奥山氏を祭る稲荷神社が造られ、現在も山頂に稲荷が祭られている。この稲荷神社に伴う改変を若干受けているが、武田氏の原型を良く留めていると評価されよう。
平成6年〜11年にかけて、本曲輪を中心に発掘調査が実施された。この調査によって本曲輪から礎石建物1棟、堀立柱建物2棟(内1棟は、2間×2間の井楼櫓と推定)、礎石城門1基、堀立柱城門2基、柵列1条が検出された。また本曲輪の南側下段から、堀立柱城門1基、柵列1条、木橋跡、梯子跡も確認されている。最も注目されるのは、各曲輪を結ぶ城内道が完全な形で検出されたことである。幅約1間の道は、三の曲輪から土橋を利用し二の曲輪東中段を真っ直ぐ通り、梯子によって二の曲輪下段へと上がる。ここからは木橋を通り、直角に曲がり、城門をくぐり、更に三度直角に折れ曲がり、本曲輪搦手門へと至る構造であった。全国的にみても、完全な形で城内道が検出された事例はなく戦国期の城内構造を知る貴重な遺構と評価される。
出土物は、@城郭創築以前の遺物A奥山時代(15世紀前半から16世紀中頃)B武田時代(16世紀後半)C廃城後(江戸時代以降)の遺物が出土しているが、約8割がAの奥山時代の遺物であった。
発掘調査に併せて実施された整備事業で、礎石建物1棟、堀立柱建物1棟(井楼櫓)、城門4基、柵列2条が復元された。復元考証は、三浦正幸広島大学教授と織豊期城郭研究会が行った。なお、安全柵として本曲輪を囲む土塀、二の曲輪、三の曲輪を囲む柵列が模擬復元された。また本曲輪には管理施設が置かれている。
城内道は、位置はそのままで復元されたが、梯子、木橋については安全上の観点から現代工法によった。二重堀切を渡る木橋は遺構を保護するためと、南からの通路を確保するために設けられた新たな施設で、本来ここに位置していたものではない。
(看板資料より)


本曲輪

本曲輪の構造
発掘調査によって検出された武田時代の建物は、基本的に6尺を1間として使用しています。城の構造同様、本曲輪内の建物もコンパクトにまとまっていました。確認された建物は、倉庫もしくは番小屋的機能を持つ1間×4間の礎石建物、井楼櫓と推定される2間四方の堀立柱建物、表口と裏口にある城門、月隠しのためと考えられる塀、土塁です。
土塁辺縁部に大型の礎石が散乱していた状況から、曲輪南半分の空白地帯には、礎石建ちの主殿があったと思われます。検出された主要建物はすべて主軸を同一にしています。このことから、主殿は3間×2間程度の建物であったと推定されます。
(看板資料より)


井楼櫓

この建物は、永禄末年頃〜天正4年(1569〜76)の間に武田信玄・勝頼によって建てられた物見をするための櫓です。建物規模は2間×2間の正方形で、確認された柱穴は、径60cm・深さ50cmと非常に大きな柱を使用していました。
また中央部にいずれの柱穴とも軸を同一にしない柱穴が確認されています。この柱穴は、井楼櫓の昇降に利用するためのハシゴを支えた穴と考えられます。
(看板資料より)


城主の碑

応永21(1414)年、奥山金吾正並びに諸士が伊良親王を守護して、周智郡奥山に仮宮を設け、葛郷高根の城を築いたのが城の始まりと伝わる。本曲輪の発掘調査により、城之創築が15世紀前半に遡ることは確実な状況であるが、伝承との関連は不明である。
その後奥山氏は、16世紀前半の永正から大永年間(1504〜28)頃に、駿河守護の今川氏の配下に組み入れられ、北遠江のほぼ全域を支配下としている。永禄年間(1558〜70)後半、今川家が凋落傾向をたどると、奥山氏内部で今川・徳川・武田への帰属を巡って内部分裂が勃発、城は落城したと考えられる。
元亀から初頭(天正年間1570〜76)にかけて、武田氏が遠江侵攻戦を開始。本城は、武田信玄・勝頼父子によって大改修され、国境を守る橋頭堡とされたが、武田氏滅亡と共にその使命を終えている。
現在、本曲輪を中心に、発掘調査成果をもとに上屋構造物を含め復元整備が実施され、往時の勇姿を取り戻した。城域を区切る武田氏独自の二重堀切の規模も雄大で、また各曲輪を接続する城内道も検出、復元されている。
(看板資料より)


本曲輪下の段 虎口

二の曲輪


堀切

堀切と土橋
二の曲輪と三の曲輪の間には、堀切が設けられていました。堀切の東端には、土橋が確認されています。この土橋によって、城内道は直線で二の曲輪斜面を通ることが可能となったのです。
堀切の形状は、断面逆台形の箱堀で、上幅が約11m、下幅が約1m、長さ約11mです。岩盤を削って造られており、その深さは約8mで、45度という急角度に加工されていました。専門集団の関与が考えられるほぼ丁寧な造りとなっています。
土橋は岩盤を堀り残し造られ、幅約1.5mで、堀底からの高さは60cmです。
(看板資料より)


二重堀切

三の曲輪の南側に位置する最終の堀が二重堀切です。幅約29mで中央に高さ約4mの土塁が設けられ、防備を強固にしています。この二重堀切をもって、城内と城外が区切られていました。
三の曲輪側の3号堀切は、曲輪を取り囲むようにU字をしており、最深部で8mの深さがあります。
城外側の4号堀切は、尾根を完全に遮断するように一直線に掘られ、最深部で約9mの深さになります。
堀の形状は、共に断面V字形をした薬研堀となっています。攻城側は急角度の堀を越え、土塁を昇りさらに、再度堀を越えなければなりませんでした。
(看板資料より)

 

 
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