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長野県諏訪市

高島城

2005年09月11日

高島城は天正18(1590)年、豊臣秀吉の部将、日根野織部正高吉によって設計され、文禄元(1592)年着工、慶長3(1598)年に完成した。この高島城は、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り「諏訪の浮城」と呼ばれ慶長6(1601)年初代藩主諏訪頼水から10代藩主諏訪忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇ってきた。
明治4(1871)年廃藩置県となり、明治8(1875)年廃藩置県によって天守閣は撤去され、翌明治9(1876)年5月高島城址は「高島公園」として一般に開放された。
朝夕の「時の太鼓」が鳴らなくなって100年、諏訪の住民の「高島城」に寄せる愛着は強く、昭和45(1970)年春、ここに「高島城」は復興された。
(看板資料より)

高島藩の起こりとあらまし
天正10(1582)年3月、諏訪を支配していた武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、諏訪は信長の家臣川尻秀隆の領地になったが、本能寺の変を機に、諏訪上社の大祝であった諏訪頼忠が支配者となり、徳川家康の配下になった。天正18(1590)年小田原の北条氏滅亡後、諏訪頼忠は、家康に従って武蔵(現埼玉県)に移り、ついで上野(現群馬県)に移った。
この時諏訪は、豊臣秀吉の家臣日根野高吉の領地になった。高吉は天正19(1591)年、この地に城を築くことを決め、翌文禄元年に着工、慶長3(1598)年ころ高島城が完成したと考えられる。
関ヶ原の戦いの後、慶長6(1601)年に高吉の子、日根野吉明は、下野(現栃木県)に移され、上野にいた諏訪氏が諏訪に戻り、初代高島藩主となった頼水以降10代、明治維新までここを居城とした。
2代忠恒は、将軍秀忠から「忠」の字を賜り、それまで諏訪氏名前に用いてきた「頼」の字に替えて「忠」を代々用いるようになった。3代忠晴時代には藩の体制が出来上がり、4代忠虎、5代忠林は文化的業績を多く残している。6代忠厚のころには社会も変動し、逼迫した藩の財政再建を発端に「二之丸騒動」と呼ばれる御家騒動が起こり、藩政の転換期を迎えた。8代忠怒期には、老中松平定信の娘烈姫(清昌院)が輿入れするなど落ちつきを取り戻した。9代藩主忠誠は幕府の老中などの要職を勤めたが、10代忠礼のとき明治維新を迎え、明治5(1872)年、高島城も破却されることになった。
(天守閣内説明資料より)


城内の説明にある通りこの地に復元された高島城は武田信玄、武田勝頼の時代のものではなく、武田家が滅んだ後に築城されたものです。天守閣の受付の人の話によればこことは別に茶臼山の地に城があったようで茶臼山城とも、高島城とも呼ばれていたとのことでした。
城内は公園になっていて一周してみましたが、復元された?櫓(上の写真)が茶室になっていて月に一度開催されている茶会がちょうどはじまるところで、誘われるまま参加してみました。
戦国時代にも行なわれた茶会の体験ができて良かったですが約40分間正座しっぱなしで足がしびれてしまいしばらく立ち上がることができませんでした。

 

 
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