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山梨県甲斐市

天沢寺

2014年07月20日


天沢寺は文明4年亀沢郷の地頭飯富氏が鷹岳宗俊禅師を開山に請じて開基した禅刹で北岳禅林の名で知られている。開基檀那飯富氏は逸見光長の子飯富宗李を祖とする甲斐源氏で子孫は武田家の重臣として亀沢、西八幡ほか数郷を領し、西八幡郷に在した武田信虎公に仕えた飯富道悦は虎昌と昌景のすぐれた二児を残して永正12年に没した。
虎昌は長じて兵部少輔となり重臣に列したが、主君信虎公の失業を憂い、板垣信方、甘利虎泰と謀り信虎公を排し若君信玄公を擁立した。虎昌は智謀衆に優れて信濃経略に大功を立て誠実な人柄を嘉されて若君義信の守役となった。永禄8年義信事件の起こるや忠志空しく潔く自刃して果てた。法名笑岳悦公大居士。
昌景は初名を源四郎といい天文21年三郎右兵衛尉となり侍大将を命ぜられた。資性剛毅しかも温厚で歴戦に抜群の功を立て、兄虎昌の自刃により飯富家が断絶すると、主命により名族山県氏を再興し、山県三郎右兵衛尉と号し騎馬三百の隊長となった。永禄12年駿河攻略が成ると、江尻城代となった。天正3年勝頼公に従って三河長篠に出陣。5月21日の設楽原の戦いに壮烈な戦死を遂げた。法名好雲喜公大禅定門。
飯富家は天沢寺の開創以来その護持のために歴代の寄与が大きかったが、虎昌、山県昌景両将は特に当寺の修造発展に努められた。ここに両将の顕彰碑を建立するに当りその遺徳を記して慰霊の微意を表すものである。
(石碑記載文章より)

飯富虎昌、山県昌景、飯富道悦の墓


天沢寺六地蔵幢

上から宝珠、笠、龕、中台、幢身(竿)、基礎からなり、龕の中には六地蔵が納められている。宝珠部分は五輪塔の空風輪が転用され、龕は後世において補われたもので、地上からの高さは2.25メートルを測る。幢身は下部が若干広がるものの六角柱に近く、その一面には「応永33年5月12日 大旦那妙性」と刻まれ、応永33(1426)年に大旦那の妙性によって建立されたことがわかるが、妙性がどのような人物であったかは不明である。
北巨摩一帯から甲府盆地周辺にかけては、数多くの中世六地蔵幢が点在するが、紀年銘をもつものは少なく、造立期の部材がある程度そろい、全体の形態がほぼ把握できる点においても貴重な遺品といえる。
(看板資料より)

 



2004年10月24日

天沢寺は文明4年亀沢郷の地頭飯富氏が鷹岳宗俊禅師を開山に請じて開基した禅刹で北岳禅林の名で知られている。開基檀那飯富氏は逸見光長の子飯富宗李を祖とする甲斐源氏で子孫は武田家の重臣として亀沢、西八幡ほか数郷を領し、西八幡郷に在した武田信虎公に仕えた飯富道悦は虎昌と昌景のすぐれた二児を残して永正12年に没した。
虎昌は長じて兵部少輔となり重臣に列したが、主君信虎公の失業を憂い、板垣信方、甘利虎泰と謀り信虎公を排し若君信玄公を擁立した。虎昌は智謀衆に優れて信濃経略に大功を立て誠実な人柄を嘉されて若君義信の守役となった。永禄8年義信事件の起こるや忠志空しく潔く自刃して果てた。法名笑岳悦公大居士。
昌景は初名を源四郎といい天文21年三郎右兵衛尉となり侍大将を命ぜられた。資性剛毅しかも温厚で歴戦に抜群の功を立て、兄虎昌の自刃により飯富家が断絶すると、主命により名族山県氏を再興し、山県三郎右兵衛尉と号し騎馬三百の隊長となった。永禄12年駿河攻略が成ると、江尻城代となった。天正3年勝頼公に従って三河長篠に出陣。5月21日の設楽原の戦いに壮烈な戦死を遂げた。法名好雲喜公大禅定門。
飯富家は天沢寺の開創以来その護持のために歴代の寄与が大きかったが、虎昌、山県昌景両将は特に当寺の修造発展に努められた。ここに両将の顕彰碑を建立するに当りその遺徳を記して慰霊の微意を表すものである。
(石碑記載文章より)

中央の新しくて大きな碑は、NHK大河ドラマ武田信玄を放映した際に建てられたらしい。それまではこの辺は竹薮でその中にひっそりと小さな祠があったとのことです。その小さな祠は現在は右側にひっそりと置かれていました。


天沢寺から南の方を見渡すと甲府盆地が見え、遠く竜王の町中を流れている釜無川まで見ることができました。更にその先の山の奥が飯富(いいとみ)というところで飯富家の出身地なのだそうです。ここから見えるところはすべて飯富家の領地だったのだそうで、領地の一番北に位置するこの地に菩提寺を建てたのだそうです。


天沢寺六地蔵幢

上から宝珠、笠、龕、中台、幢身(竿)、基礎からなり、龕の中には六地蔵が納められている。宝珠部分は五輪塔の空風輪が転用され、龕は後世において補われたもので、地上からの高さは2.25メートルを測る。幢身は下部が若干広がるものの六角柱に近く、その一面には「応永33年5月12日 大旦那妙性」と刻まれ、応永33(1426)年に大旦那の妙性によって建立されたことがわかるが、妙性がどのような人物であったかは不明である。
北巨摩一帯から甲府盆地周辺にかけては、数多くの中世六地蔵幢が点在するが、紀年銘をもつものは少なく、造立期の部材がある程度そろい、全体の形態がほぼ把握できる点においても貴重な遺品といえる。
(看板資料より)

 

 
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