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愛知県新城市

鳶ヶ巣山陣地

2014年08月15日

5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の将士を率い、長篠城監視のために残留した武田軍の5つの砦を奇襲した。この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶ヶ巣砦方面の火の手と銃声に驚き本隊に戦闘開始を指令した。
5つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが指揮官のほとんどが討ち取られ、残兵は「長走り」の瀬を渡って本隊に合流しようとした。
その前夜、酒井忠次たち将士は大雨の中を豊川渡河「舟着山」の裏をまわり5つの砦の背後の山中に潜み夜明けを待っていたのである。
(看板資料より)


天正の杉

この枯木は明治7年の台風によって倒れた杉の木の残骸である。倒れて後も暫く余命を保っていたが昭和12年頃遂に枯死してしまった。樹齢は不明であるが、300年以上はたっており、長篠合戦当時、既に生存していたものと考えられるところから「天正の杉」と呼ばれている。
(看板資料より)

 



2006年05月06日

5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の将士を率い、長篠城監視のために残留した武田軍の5つの砦を奇襲した。この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶ヶ巣砦方面の火の手と銃声に驚き本隊に戦闘開始を指令した。
5つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが指揮官のほとんどが討ち取られ、残兵は「長走り」の瀬を渡って本隊に合流しようとした。
その前夜、酒井忠次たち将士は大雨の中を豊川渡河「舟着山」の裏をまわり5つの砦の背後の山中に潜み夜明けを待っていたのである。
(看板資料より)

鳶ヶ巣山の麓の案内板を見たら山の上に駐車場があることがわかったので車で登ってみました。すると案内図の通り車を止めるところがあり、そこから歩いてすぐに鳶ヶ巣山陣地にたどり着くことができました。前回来たときには麓に車を置いて歩いて登りましたが、ここまで車で行けてしまえば楽ですね。


2003年10月12日

天正3(1575)年長篠合戦において武田軍は長篠城包囲態勢の一環として、乗本側の鳶ヶ巣を主軸に久間山、中山、姥ヶ懐、君が伏床の5陣地を築き、武田信実兵1千を擁して守っていた。織田・徳川の連合軍は、5月20日の夜酒井忠次が4千の兵を率い、密に松山峠の険を越え背後を突く奇襲作戦に出た。両軍激突の末信実は戦死し、5陣地ことごとく壊滅した。
(看板資料より)

戦没将士の墓

鳶ヶ巣の戦い
天正3年5月8日、武田勝頼は1万5千の大軍を以って長篠城を包囲した。その時乗本側に5つの砦を築き守兵1千を配して包囲の一環とした。君ヶ伏床には和田兵部、姥ヶ懐には三枝勘解由兄弟、鳶ヶ巣には主将武田兵庫頭信実、中山には名和無理之助並びに五味与惣兵衛、久間山には浪合民部等がこれにより堂々のの陣を張っていた。
20日の夜、徳川の臣酒井忠次は4千の兵と500丁の鉄砲隊を引き連れ、吉川の松山峠を越えひそかに5砦の背後に迫っていた。21日の払暁、酒井軍は鉄砲を合図に閧の声を挙げ一斉に攻め込んで来た。武田軍は狼狽しながらもよく防戦し、特に鳶ヶ巣では、壮烈な争奪戦を三度も繰り返したが、ついに衆寡敵せずして、信実以下ことごとくここに戦死を遂げたのである。
(看板資料より)


天正の杉

この枯木は明治7年の台風によって倒れた杉の木の残骸である。倒れて後も暫く余命を保っていたが昭和12年頃遂に枯死してしまった。樹齢は不明であるが、300年以上はたっており、長篠合戦当時、既に生存していたものと考えられるところから「天正の杉」と呼ばれている。
(看板資料より)


鳶ヶ巣砦付近から長篠城と医王寺を望む

 


輪禅寺

 

 
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