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長野県伊那市

殿島城

2017年06月11日

天文の昔平氏の遺孫粟田口民部重吉の16代の後裔がこの地に来て城を築く。この城を春日城という。城主は在名を氏とし伊那部大和守重慶といい、初め300貫文を領して10騎の将であったが次第に増大す。本姓は春日氏であって伊那地方の重鎮であった。その子但馬守重成が継ぎ更にその長子左衛門尉重親が継いだ。この時次子重国を殿島につかわし殿島城を経営させた。
(春日城の石碑記載文章より)

殿島大和守の墓

殿島大和守の墓

 



2006年12月30日

天文の昔平氏の遺孫粟田口民部重吉の16代の後裔がこの地に来て城を築く。この城を春日城という。城主は在名を氏とし伊那部大和守重慶といい、初め300貫文を領して10騎の将であったが次第に増大す。本姓は春日氏であって伊那地方の重鎮であった。その子但馬守重成が継ぎ更にその長子左衛門尉重親が継いだ。この時次子重国を殿島につかわし殿島城を経営させた。
(春日城の石碑記載文章より)

殿島大和守重国は、後に伊那の諸将と共に武田信玄に反抗したため、兄である春日城主である伊那部左衛門尉重親や、溝口城主の溝口民部少輔正慶、艮城主の黒河内隼人正信、松島豊前守信久、宮田左近正親房、小田切大和守入道正則、上穂伊豆守重清などと共に狐島で処刑され、更にその首は黒河内の人々によって持ち去られて艮城の東にある八人塚に葬られました。

殿島城はなかなか見つけることができず付近をうろうろしていましたが、場所を尋ねた軽トラのおじさんがこれからちょうどそこの近くに行くということでしたので軽トラの後についていって現地にたどり着けました。駐車場に車を止めてすぐに入口の門があります。門の左側にはあまり深くはないですが大きな空掘りがありました。門をくぐると周囲を土塁で囲まれたところになります。周囲の土塁の規模はかなり大きくて驚きました。門の左側の土塁には土塁をぶち抜いてトイレが作られていました。また門の右側には敷島城址の石碑があり、一番奥には遊戯施設などもありました。


春日城
蓮台場
八人塚
艮城
溝口城
高遠城

 

 
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