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群馬県東吾妻町

植栗城

2013年01月13日

吾妻川南岸崖上にあり、応仁2(1468)年、植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われてここに逃れた。植栗元吉討伐を命ぜられた斎藤憲次が叛し、大野憲直を滅ぼして岩櫃城主となった時、元吉は憲次に従った。また、植栗安芸守元信は永禄7(1564)年、岩櫃方として真田勢と戦ったが、のち真田に属し、植栗河内は長篠合戦に負傷した。
本丸は東西80mの長い三角形で、西の堀切は長さ30m、周囲は野面積みの石垣で被覆されている。
(日本城郭大系より)

植栗城は植栗氏の城である。その発祥は鎌倉時代まで遡り、江戸幕府の一国一城によって廃された。この間一度も落城していない。
本丸の西と南を囲む壕は「のづら積み」の石垣か、或いは三段に区分された水堀であったかも知れない。追手口の土橋は水堀の堰堤を兼ねていたと思われる。
搦手口の土橋も堀の堰堤を兼ねていたらしい。両虎口が堀の端に位置しているのは、水を湛える堰堤との関係にとして注目したい。
本丸西部の一米ほど高い部分は詰の郭である。また東百米先に城主の碑がある。
農耕に適した植栗へは、古代には用明天皇第三皇子殖栗(えくり)王の裔孫が、中世には吾妻氏一族や、鎌倉からの流人、或いは越中神保氏の一族らが来て、代々植栗氏を称して開拓してきたという。
植栗院殿安芸守大極大居士は永禄7(1563)年に死去した神保氏の法名である。越中守護代神保氏は天文15(1546)年に岩本から来て植栗城主になった。
それ以前の城主は植栗河内守元吉(岩櫃城主吾妻太郎の一族)だが、安芸守の名はその前後にも見られる。
以後の安芸守(安房守)は天正11(1573?)年に鹿島宮を再建したり、植栗河内守と真田氏に従い、武山戦、長篠の合戦、松井田合戦などに参戦している。
石碑は歿後130年ほど経て建立され、以後、植栗は旗本土屋氏の采地となって明治維新まで続く。
(現地で頂いた資料より)

植栗安芸守碑

 
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