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長野県大鹿村

矢立て木

2004年04月30日

大鹿村指定天然記念物 矢立て木
由緒
戦国末期から江戸時代初期にかけて、遠山地方の豪族遠山氏が武田、徳川両氏に仕え、参勤の途上この樹に矢を射立てて武運を祈り且つ吉凶を卜したと云う。明治の中頃、立木処分の際、この古木は由緒あるものとして保存し、今日に至る。
(看板資料より)


分杭峠を越えて秋葉街道を南下していくと途中に矢立て木というのがありました。秋葉街道は全て舗装されていましたがこの矢立て木は川を挟んだ反対側にあり、木の下には旧道らしき道も確認できました。きっと当時はこんな狭い道を通っていたんですね。武田軍もせいぜい2列縦隊にしかなれない狭い道を通って浜松を目指していたのでしょう。木はまっすぐに伸びていて大きな木でした。

 

大鹿村の下青木薬師如来の前に秋葉街道に関する看板がありましたので以下に書き写します。


秋葉街道
秋葉街道は長野県では秋葉道、静岡県では信州街道とも呼ばれ、古代より見越路として開設され、南は駿河、三河方面より北は東山道を通り高遠諏訪に至り、文化の輸入路として開かれた古道である。南北朝時代、南朝後醍醐天皇第8子宗良親王大河原に入村されるや、諸国の南朝系豪族の忠勤道として重要な街道であった。
又戦国時代甲斐の武田信玄が東海地方進攻の陰れ軍略路となり山本勘助、馬場信房にまつわる伝説の多く甲州南下するに重要な役割を果たしたと考えられる古道でもあり中央構造線がこの街道沿いに南北に走っている。
江戸時代、民間信仰ブームの中で遠州の秋葉山にある秋葉神社が火防の神様として崇められ「秋葉参講」なる講組織により信州よりこの街道を信者が秋葉へ、遠州より諏訪へと往還が頻繁であった。しかし近年に至り中央自動車道の開通、国道153号線の改良が進むにつれ通行の中心が天竜川沿線に移りこの街道の通行が少なくなった。その後本道が国道256号線に昇格となり地蔵峠、上村間の自動車による通行可能とともにこの街道の往還が次第に増加している。更に今後三遠南信自動車道の開通などによりこの街道沿線町村の産業文化の発展が大いに期待されるとことである。
(看板資料より)

 

 
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