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群馬県前橋市

膳城

2015年07月19日

膳城跡は、兎川と湧水による湿潤な谷地の間の丘陵性台地の先端部に位置する。南北約550m、東西約300mほどの範囲の中に濠や土塁をめぐらし、本丸の他、数区画からなる郭を形成している。この城の築城年代は明らかではないが、鎌倉時代の文書に既に「善」氏の名が見える。しかし、この膳城に居城していたかについては明らかではない。その後、室町時代から戦国時代にかけての文書にも「善」氏は度々登場する。戦国時代には、関東地方の覇権をめぐる北条、上杉、武田の戦記物に度々「膳」の名が現る。現在見ることのできる膳城の姿が形成されたのは、この戦国時代末期と考えられる。特に天正8(1580)年の武田勝頼による東上州進攻の際の、膳城をめぐる攻防戦は「膳城素肌ぜめ」として著名である。膳城はこの戦いの後、廃城となったと伝えられる。本丸周辺の濠、土塁等は当時の姿を良く残している。
(看板資料より)

前橋市粕川出土文化財管理センターと膳城北郭址
出土文化財管理センターは、粕川村村内各地で行われた発掘調査によって出土した埋蔵文化財を保存、収蔵する施設です。村民の皆さんをはじめとして、村内外の多くの皆さんに埋蔵文化財について学習していただくための施設でもあります。粕川村が全国に先駆けて、平成5年・6年度の文化庁の補助金を受けて建設したものです。
現在、管理センターが建つ土地は、群馬県指定史跡膳城跡の北郭の一角に当たります。管理センター建設前の発掘調査では、写真に見るような大きな掘建柱建物址や井戸址、方形竪穴土壙と呼ばれる中世の城址に特徴的な遺構が検出されています。また、現在壕として復元した部分の下には、本丸から北へ延びる、北郭の大壕が確認されました。
(看板資料より)

膳城平面図

勝頼は天正8年8月29日、来る5日に上州へ出馬すると工藤銀七郎等に連絡したが、実際の出馬は9月20日になった。
10月3日、武田家は鑁阿寺(足利市)や足利学校に禁制を出した。
武田軍は新田金山城(太田市)を攻め、小泉(大泉町)、館林(館林市)・新田領を焼き払い、8日までに膳城(前橋市)を攻略した。その後北条氏政が武蔵本庄に着陣すると、勝頼は利根川を渡ったが、敵が退いたので甲斐に戻った。
(武田勝頼 笹本正治著より)

天正8年08月 勝頼、東上野に侵攻し、北条方の膳城ほかの諸城を攻落する。
天正8年10月3日 勝頼、足利の鑁阿寺に禁制を与える。
(武田勝頼 柴辻俊六著より)

天正8(1580)年9月下旬、武田勝頼が厩橋に出馬するという事件があった。城を接収した上、東上州勢に川西の兵を加えて、大胡、山上、伊勢崎などの諸城を攻略させた。人々に動揺を与えないために勝頼軍はあえて平服のまま東毛を巡視中、膳城付近にさしかかったところが、城内はちょうど酒盛りの最中で、玉村五郎兵衛という侍が、渋川主膳正と口論を始め、部下も双方に分かれて喧嘩をしていた。そんな騒乱で城内が猛り狂っている時、城の周囲を居丈高に馬を乗り回し、引き上げていく武田衆を見つけた城兵たちが怒り、最後尾を行く倉賀野秀景を急襲した。これを見た安中勢が取って返し、もみ合っているうちに武田勢全員が戻ってきて襲いかかったので、城兵たちは狼狽して城内へ逃げ込んだ。武田勢は平服(素肌)のまま攻め込み、浅見清太夫が大胡民部左衛門を討ち取り、落城となった。これが有名な「膳城の素肌攻め」である。膳城はこの戦いの後、廃城になったと伝えられている。
(粕川村歴史散歩より)


内堀

二の丸

空掘

袋曲輪

空掘

古塔



2005年04月30日

膳城平面図

膳城跡は、兎川と湧水による湿潤な谷地の間の丘陵性台地の先端部に位置する。南北約550m、東西約300mほどの範囲の中に濠や土塁をめぐらし、本丸の他、数区画からなる郭を形成している。この城の築城年代は明らかではないが、鎌倉時代の文書に既に「善」氏の名が見える。しかし、この膳城に居城していたかについては明らかではない。その後、室町時代から戦国時代にかけての文書にも「善」氏は度々登場する。戦国時代には、関東地方の覇権をめぐる北条、上杉、武田の戦記物に度々「膳」の名が現る。現在見ることのできる膳城の姿が形成されたのは、この戦国時代末期と考えられる。特に天正8(1580)年の武田勝頼による東上州進攻の際の、膳城をめぐる攻防戦は「膳城素肌ぜめ」として著名である。膳城はこの戦いの後、廃城となったと伝えられる。本丸周辺の濠、土塁等は当時の姿を良く残している。
(看板資料より)

前橋市粕川出土文化財管理センターと膳城北郭址
出土文化財管理センターは、粕川村村内各地で行われた発掘調査によって出土した埋蔵文化財を保存、収蔵する施設です。村民の皆さんをはじめとして、村内外の多くの皆さんに埋蔵文化財について学習していただくための施設でもあります。粕川村が全国に先駆けて、平成5年・6年度の文化庁の補助金を受けて建設したものです。
現在、管理センターが建つ土地は、群馬県指定史跡膳城跡の北郭の一角に当たります。管理センター建設前の発掘調査では、写真に見るような大きな掘建柱建物址や井戸址、方形竪穴土壙と呼ばれる中世の城址に特徴的な遺構が検出されています。また、現在壕として復元した部分の下には、本丸から北へ延びる、北郭の大壕が確認されました。
(看板資料より)

旧粕川村は最近の市町村合併で前橋市となりましたが、その旧粕川村に膳城という城跡があり、天正8年に武田勝頼が攻め落としたという情報があったので今回の史跡探索の際に寄ることにしました。群馬県の中でも東側に位置しているので朝一番に寄ることにしたのです。天正8年といえば武田勝頼が滅ぶ2年前であり、高天神城は包囲されて落城寸前、御舘の乱により東上州は上杉氏から譲り受けることになったとはいえ、北条氏とは敵対関係に陥り、武田勝頼はかなり苦しい状況であったと思うのですが、こんな時期にこんな場所まで攻め込んできていたことを今回初めて知りました。思ったよりしっかりと遺構が残されていて大きな掘や土塁の様子を確認することができました。

天正8(1580)年9月下旬、武田勝頼が厩橋に出馬するという事件があった。城を接収した上、東上州勢に川西の兵を加えて、大胡、山上、伊勢崎などの諸城を攻略させた。人々に動揺を与えないために勝頼軍はあえて平服のまま東毛を巡視中、膳城付近にさしかかったところが、城内はちょうど酒盛りの最中で、玉村五郎兵衛という侍が、渋川主膳正と口論を始め、部下も双方に分かれて喧嘩をしていた。そんな騒乱で城内が猛り狂っている時、城の周囲を居丈高に馬を乗り回し、引き上げていく武田衆を見つけた城兵たちが怒り、最後尾を行く倉賀野秀景を急襲した。これを見た安中勢が取って返し、もみ合っているうちに武田勢全員が戻ってきて襲いかかったので、城兵たちは狼狽して城内へ逃げ込んだ。武田勢は平服(素肌)のまま攻め込み、浅見清太夫が大胡民部左衛門を討ち取り、落城となった。これが有名な「膳城の素肌攻め」である。膳城はこの戦いの後、廃城になったと伝えられている。
(粕川村歴史散歩より)

 
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