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群馬県前橋市

中村城

2015年07月19日

姫塚

天正7年6月、膳城が武田勢に攻められて落城した時、中村城は運命を共にした城主中村右馬之丞の姫は薙刀を振って大奮戦したが力尽きてここで討死した。
明治100年6月この碑を建てる。
石碑文章より

堀跡

中村城跡
戦国末期の平城の跡と想定される。中村城について記述のある古文書は無く、伝承にのみ「中村右馬之丞」の居城と伝えられている。これまで、発掘調査等による城の来歴を示すような資料の発見も無く、山崎一宇時の研究が唯一の資料といえる。不明な部分の多い居館跡であるが、遺構自体は比較的良好に残っている。
城域は方200m程の規模が推定され、本丸は一辺170mの方形を呈し、北面で土居・濠が良く残る。東面は現在農業機械置場と子供広場になっているが、近年まで貯水池として濠の名残を留めていた。本丸北西角の構えには屏風折があり、、土居・濠もそれに添ってクランクする。濠は西面で長さ20m程で途切れ、本丸から城外へ通じる搦め手虎口となる。この部分から本丸南面にかけては一段低い南曲輪が幅約40mの鍵型に本丸を囲んでいる。本丸と南曲輪は、現在では明瞭ではないが濠で画されており、中央に設けられた虎口で通じていた。この虎口は現在でも本丸への進入路になっており、追手虎口が想定されている。また、本丸北面中央にも北曲輪へ通じる虎口が開いていた。北曲輪は本丸北面の東半分に帯状に添う狭小な曲輪で、現在の濠北側の道路部分にあたる。なお、道路北側から東面の広場東を流れる用水路は外堀の痕跡と考えられ、西面と南面にあっては、南曲輪の縁に沿った道路脇の側溝が外堀の名残と考えられている。
伝承の中村右馬之丞は武田勝頼に滅ぼされ、粕川村膳や、新里村小林に在住の中村姓の家がその子孫と言われているが、山崎氏は現在本丸にお住まいの松島氏の先祖との関係についても示唆している。
(看板資料より)

堀跡

 
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