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静岡県森町

天方城

 
2013年12月31日

この城がいつ築かれたかは、はっきりした資料は見当たらないが、応永年代には既に山内対馬守の居城であった。城主天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国乱世を迎えた。それまで遠江、駿河を支配していた今川氏が義元の死後斜陽化、これを見た三河の徳川家康の遠州進攻の口火が切られたのは永禄11年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12年6月19日家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政、天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃。郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。山城守もよく防戦したがついに力尽きて降伏。
翌、元亀元年10月位には命令に従わずに軍兵を集めてたてこもったため再び大須賀康高、榊原康政をして外曲輪を攻め破る。山城守防ぐことかなわず降伏し徳川の支配下に入った。
それから3年後の元亀3年9月下旬、武田信玄は4万余の大軍を率いて犬居城主天野氏の案内で飯田城を攻略して天方城にせまった。天方山城守は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし戦わずして降伏してしまった。そこで信玄は久野氏を残して山城守とともに天方城を守らせた。翌天正元年3月家康は「信玄に降伏したものを捨置くべきにあらず」と、天方城攻略を決行した。先にこの城に残った武田の臣である久野氏は城兵を指揮して大手の門を切って出て戦い、寄せ手の大久保忠隣、渡辺半蔵らは烈しく攻め、ついに外堀を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、城主山城守、久野氏は必死に防戦したが力尽きて再び降伏した。遠江国風土記には、のちにまた甲州の城となったが、天正2年3月に家康は遠州の軍兵を率いて天方城を攻め3日のうちに攻略、この城に軍兵を置くとある。
その後通興の子は家康の長男信康が織田信長に謀反の疑いをかけられて天正7年に二俣城にて切腹を命ぜられた際に介錯をつとめた。このため主君の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ高野山ののぼり仏門に入りその後越前松平秀康に仕えて越前天方氏の祖となりその子孫は明治まで松平氏に仕えた。
一方通興は天方家の存続をはかるため外孫を養子に迎え、後に家康、秀忠に従って数々の戦功をあげた。
(看板資料より)

案内図

主郭

堀跡

堀跡


 
2012年02月19日

この城がいつ築かれたかは、はっきりした資料は見当たらないが、応永年代には既に山内対馬守の居城であった。城主天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国乱世を迎えた。それまで遠江、駿河を支配していた今川氏が義元の死後斜陽化、これを見た三河の徳川家康の遠州進攻の口火が切られたのは永禄11年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12年6月19日家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政、天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃。郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。山城守もよく防戦したがついに力尽きて降伏。
翌、元亀元年10月位には命令に従わずに軍兵を集めてたてこもったため再び大須賀康高、榊原康政をして外曲輪を攻め破る。山城守防ぐことかなわず降伏し徳川の支配下に入った。
それから3年後の元亀3年9月下旬、武田信玄は4万余の大軍を率いて犬居城主天野氏の案内で飯田城を攻略して天方城にせまった。天方山城守は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし戦わずして降伏してしまった。そこで信玄は久野氏を残して山城守とともに天方城を守らせた。翌天正元年3月家康は「信玄に降伏したものを捨置くべきにあらず」と、天方城攻略を決行した。先にこの城に残った武田の臣である久野氏は城兵を指揮して大手の門を切って出て戦い、寄せ手の大久保忠隣、渡辺半蔵らは烈しく攻め、ついに外堀を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、城主山城守、久野氏は必死に防戦したが力尽きて再び降伏した。遠江国風土記には、のちにまた甲州の城となったが、天正2年3月に家康は遠州の軍兵を率いて天方城を攻め3日のうちに攻略、この城に軍兵を置くとある。
その後通興の子は家康の長男信康が織田信長に謀反の疑いをかけられて天正7年に二俣城にて切腹を命ぜられた際に介錯をつとめた。このため主君の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ高野山ののぼり仏門に入りその後越前松平秀康に仕えて越前天方氏の祖となりその子孫は明治まで松平氏に仕えた。
一方通興は天方家の存続をはかるため外孫を養子に迎え、後に家康、秀忠に従って数々の戦功をあげた。
(看板資料より)

案内図

堀跡

展望台

展望台からの景色


 
2001年10月07日

天方城址の石碑

7:30に掛川インターの出たところで慎之介殿と待ち合わせだったので4時には出発しました。6:00には牧之原SAに到着。朝食は味噌ラーメンを食べて、7:00には掛川に到着。慎之介殿もちょうど着いたところのようでした。慎之介殿は埼玉から塩山、甲府、身延線沿いに南下してきたそうです。時間は早かったのですがすぐに出発することにしました。
今回は基本的に慎之介殿におまかせだったので私は後をついていくだけで楽だったのですが、この天方城の場所はかなり分かりづらいです。途中おばちゃんに道を聞いてそのうちの一人の方に先導してもらって城跡の入り口まで連れていってもらいました。そこからは狭い道を登り頂上まで車で行くことができました。現地は城ヶ平公園として整備されており、駐車場もあったしトイレもありました。駐車場が既に頂上にあるのでそこから先はそんなに歩かずにすぐにたどり着くことができます。入ってすぐに堀跡がありそこを越えて公園の中央付近には天方城の石碑が建っています。子供を遊ばせるにはいいところだと思いますが我々以外には誰もいませんでした。というか、まだ時間が早かったからでしょう。

堀跡

 
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