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愛知県新城市

甘利郷左衛門尉信康之碑

2014年08月16日


「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

甘利郷左衛門尉信康は、父が甘利虎泰であり、兄が甘利左衛門尉昌忠である。父の甘利虎泰は板垣信方と共に上田原の戦いで戦死しており、兄である甘利左衛門尉昌忠は武蔵松山城攻めの際に、米倉彦次郎が鉄砲で腹を撃ち抜かれ、血が腹の中にたまって膨れ上がった時に自ら馬糞を溶かした水を飲んでみせて米倉彦次郎にも飲ませて助かった話が有名である。長篠・設楽原合戦の際には既に父・兄は亡くなっており、弟の甘利信康が百騎の侍大将として小荷駄奉行を勤めた。

「かるたでつづる設楽原古戦場」によれば、甘利郷左衛門尉信康は山県らと共に左翼隊に属し徳川軍に対した。勝楽寺前から竹広表へと奮戦して、中央隊とも力を合せて第3の柵をも破る勢いであったが、山県が討たれ原も討ち死にするとじりじりと押され、天王山のふもとダンドウ屋敷付近に踏みとどまった。時すでに遅し総退却となった。目の前の連吾川沿いには、深い堀と長い柵が続いていて、「この堀と柵がなかったら、家康の本陣も突き崩すことができたのに」と、立ったまま無念の切腹をしたという。
(かるたでつづる設楽原古戦場より)

長篠合戦余話によれば、柳田激戦地付近にダンゾウ屋敷という場所があり、住民は武田軍に協力してくれるはすであったにもかかわらず、いざ戦の準備が始まると、織田・徳川連合軍の人夫となって堀を掘ったり柵を作ったりしたらしい。
当日は合戦の大勢は決まり武田軍が退却するに至り、甘利郷左衛門尉信康は、住民の寝返りを恨んで、「この部落は絶対に発展させない!」と言ってダンゾウ屋敷の前で立ったまま切腹したのだという。その後、住民は気味悪くなり、信玄台地に引っ越したとのこと。

 



2006年05月05日

甘利郷左衛門尉信康は、父が甘利虎泰であり、兄が甘利左衛門尉昌忠である。父の甘利虎泰は板垣信方と共に上田原の戦いで戦死しており、兄である甘利左衛門尉昌忠は武蔵松山城攻めの際に、米倉彦次郎が鉄砲で腹を撃ち抜かれ、血が腹の中にたまって膨れ上がった時に自ら馬糞を溶かした水を飲んでみせて米倉彦次郎にも飲ませて助かった話が有名である。長篠・設楽原合戦の際には既に父・兄は亡くなっており、弟の甘利信康が百騎の侍大将として小荷駄奉行を勤めた。

「かるたでつづる設楽原古戦場」によれば、甘利郷左衛門尉信康は山県らと共に左翼隊に属し徳川軍に対した。勝楽寺前から竹広表へと奮戦して、中央隊とも力を合せて第3の柵をも破る勢いであったが、山県が討たれ原も討ち死にするとじりじりと押され、天王山のふもとダンドウ屋敷付近に踏みとどまった。時すでに遅し総退却となった。目の前の連吾川沿いには、深い堀と長い柵が続いていて、「この堀と柵がなかったら、家康の本陣も突き崩すことができたのに」と、立ったまま無念の切腹をしたという。
(かるたでつづる設楽原古戦場より)

 



2003年10月12日



「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

長篠の戦いが行われた設楽原の中央付近にある設楽原歴史資料館から、織田・徳川連合軍の陣地に向かって坂を降りて行って柳田前激戦地および連吾川を渡る手前に甘利郷左衛門尉信康之碑がありました。

長篠合戦余話によれば、柳田激戦地付近にダンゾウ屋敷という場所があり、住民は武田軍に協力してくれるはすであったにもかかわらず、いざ戦の準備が始まると、織田・徳川連合軍の人夫となって堀を掘ったり柵を作ったりしたらしい。
当日は合戦の大勢は決まり武田軍が退却するに至り、甘利郷左衛門尉信康は、住民の寝返りを恨んで、「この部落は絶対に発展させない!」と言ってダンゾウ屋敷の前で立ったまま切腹したのだという。その後、住民は気味悪くなり、信玄台地に引っ越したとのこと。

 

 
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