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埼玉県吉見町

松山

2003年08月07日

松山城跡の図

この城跡は、市野川が形成した広大な低地に突き出た丘陵の東端に築かれており、戦国期に幾度もの攻防戦が行われた北武蔵地方屈指の平山城である。現存する城跡は当時の姿を良好にとどめており貴重な文化財である。
市野川に突き出た部分から本丸、二の丸、春日丸、三の丸が南西から北東に向かって一直線に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。また、兵糧倉跡や物見櫓跡なども残されている。
城の歴史は古く、古代にさかのぼるとさえ言われるが、一般的には鎌倉時代初期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉築城説、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説などがある。
しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、15世紀半ば太田氏が江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。
この城が天下に知られたのは、今から約450年前の天文年間から永禄年間のことであり、城をめぐる上杉氏、武田氏、北条氏の争奪戦は有名である。のち豊臣勢に攻められて、天正18(1590)年に落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は松平家広の居城となったが、後を継いだ弟忠頼は慶長6(1601)年浜松に移封されたのを最後に廃城となった。
大正14年に県指定史跡にとなっている。
(看板資料より)

永禄5(1562)年、11月武田信玄、義信父子は、北条氏康、氏政父子とともに上杉憲勝守る武蔵松山城を攻め、翌永禄6(1563)年2月4日に落城させた。
甲陽軍鑑によれば、このとき甘利左衛門尉昌忠の家臣米倉丹後守重継が信州刈谷原城攻めのときに考案したという、竹束に身を隠して敵を攻撃する戦法を使って成功したとか、米倉彦次郎が鉄砲で腹を撃ち抜かれ、血が腹の中にたまって膨れ上がったが、甘利左衛門尉が馬糞を溶かした水を飲ませて助かった話などが伝えられている。
(新人物往来社:定本 武田信玄より)

本丸跡

二の丸跡

春日丸跡

三の丸跡


新田次郎の小説武田信玄では、北条勢とともに武蔵松山城を囲んでいた武田軍の総大将である武田信廉は松山城付近にある百穴を見て、城に穴を掘って攻めることを思いついたことになっています。確かに松山城には下の写真のように穴があいているところもありました。吉見百穴も松山城のすぐ近くにありますので是非寄ってみてください。

松山城の横穴

吉見百穴

「百穴」の名が文献にみられるのは今から200年位前で江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ不思議な穴として興味をもたれていたと思われます。
「吉見百穴」が科学的に検討されだしたのは明治になってからで内外の著名な考古学者により調査が行われ横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表されました。
明治20年坪井正五郎博士による大発掘が行われその結果人骨、玉類、金属器、土器等が掘り出され横穴の性格を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居であり、のちに墓穴として利用されたものであると断定されました。しかし大正末期に入って考古学の発展により各地で横穴の発見発掘の結果、その出土品横穴の構造から横穴が古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として掘られたものであることが明らかにされ「住居説」がくつがえされることになりました。そして大正12年「吉見百穴」はわが国の代表的な横穴墓群として国の重要な文化財として史跡に指定されました。
戦時中横穴墓群のある岩山に地下工場建設が行われ、数十基の横穴が壊されましたが戦後吉見百穴保存会の結成により積極的な保存、管理がなされ、その後昭和38年吉見町に移管され「吉見百穴」は再び多くの人々に愛され、親しまれる史跡となりました。
(看板資料より)

地下軍需工場跡

構内の巨大な洞窟は、右の方500mから、左の方800mにわたり、山腹に掘られた30数ヶ所の一部であります。第二次世界大戦の末期昭和20年初頭前後から8月に至る間、地下軍需工場用に掘られました。この戦争の末期に各地の軍事施設は、アメリカ軍のB29爆撃機により大きな損害を受けました。
当時わが国で最大といわれた中島飛行機株式会社でも、その大宮工場(現在の富士重工)エンジン製造部門の全施設をこの地下に移転することにしました。掘削は全国各地から集められた3000人から3500人といわれた朝鮮人労働者により昼夜を通した突貫工事として進められました。ダイナマイトを使用した人海戦術でした。
トンネルは、幅4.0m、高さ2.2mの馬蹄型で、現在公開されているのは十分の一の広さにも及びません。
7月頃には完成した場所に工作機械が搬入され、大宮工場から転居した従業員や勤労動員学徒により、エンジンの部品が製造されましたが、本格的な生産活動に移る前に終戦となりました。
掘削工事に従事した最後の朝鮮人と言われた人の帰国に際し関係者により催された懇談会の席上、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの苗木は、現在もこの地で生長を続けています。
(看板資料より)

 

 
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