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    長野県喬木村

安養寺

2008年11月02日

正面には車を止めることができる場所がなかったので毘沙門堂の方に車を止めました。立派な毘沙門堂の向かいには椋鳩十句碑がありました。更に毘沙門堂の裏には知久氏廟所や椋鳩十生家跡などもあるようでした。椋鳩十はさておき、毘沙門堂の裏側に行ってみると確かに阿島藩知久家歴代廟所というものがありました。階段を登っていくと左右に沢山の墓石がありました。特に右側には説明板があって、初代知久則直公の墓がありました。

この寺は神之峰の文永寺と同様に知久氏の建立であった。天文23(1554)年武田の下伊那侵攻によって神之峰城が落ち、知久氏は滅ぼされたが、信玄は戦勝祈願とともに寺領を寄進し、武田勝頼は毘沙門天堂の修復を命じた。
(信州の仏教寺院より)


安養寺毘沙門堂

喬木村指定文化財
名称:有形文化財(建造物)安養寺毘沙門堂
所在地:喬木村5006番地
建築の年代:文政4(1822)年
廃仏棄却によって廃寺になった松尾鳩ヶ峯八幡宮境内の神宮寺護摩堂を明治11年に移築した。
(看板資料より)


知久則直公の墓

略年譜
1577 出生、幼名万亀丸、名則直、字を伊左衛門という。
1582 父頼氏、神の峰城に復帰、従四位大和守に叙任。
1583 父頼氏、浜松に於て不慮の自害、則直この時6歳、神の峰城を落去する。
1591 徳川家康に召出され廩米300俵を給さる。
1600 家康の小姓として関ヶ原戦に従う。
1601 伊那谷に於て3千石を給さる。
1604 阿島の地に館を建築。田村の寓居より移る。
1614 大阪冬の陣、浪合の関を守る。
1615 大阪夏の陣、河内の国牧方の関を守る。
     嫡子直政はじめて秀忠に拝謁す。
1618 江戸城御天守用材を伐出す。
1619 諏訪藩より板子を請取る。
1620 浪合、小野川、帯川、心川の4関支配、周辺17か村、千三百余石預る。
1627 家光より高三千石の領知状を下付さる。
1635 安養寺毘沙門堂を造営。
     高野山へ知久家先祖供養塔造立。
1643 嫡子直政、最初の参勤交代勤務する。
1644 正月2日則直没す(67歳)
(看板資料より)

阿島藩 知久家歴代廟所

 

 
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