←前のページ トップページ↑ 次のページ→

静岡県小山町

足柄城

2012年01月14日

足柄城は国境の城としての性格を持ち、本格的に築城工事が行われ、城としての形態が整えられたのは後北条氏の治世下である。その時期がいつかは不明だが、「相州古文書」に足柄城普請についての記事(天文24年)が散見されることから、天文年間(1532-55)には、隣国甲斐武田の侵攻に備えて、かなりの防備が施されていたものと考えられる。「諸国廃城考」には、「永禄12年、武田晴信攻めて是を陥る(北条氏之支城也、城主未考)」とある。
後北条氏は本城の小田原城防備のため、箱根外輪山上に城砦を構築していった。その一つとして足柄城も、大規模な修築が加えられた。天正9(1581)年6月19日、後北条氏が武田氏の動向を警戒して、浜居場城の番衆に出した「はまいば掟書」には「城より西方へ一切出るべからず」とか「当番の者をば城外へ出事、一切停止せしめ候」、「自然為途之用橋を掛置候」、「彼引橋ニ番屋を作、昼夜守手を置き」などの記述があり城中の緊迫した様子が分かる。
(日本城郭体系より)


山の神社

足柄峠は古くから官道として往来が盛んであったので峠越えの旅人の道中安全と富士の裾野の人々の安泰を祈願する為富士山の一望できるこの地を霊地として山の神社を建立心の拠所とした。
戦後関西大学の教授が足柄山を訪れ「昔から高い山は神の宿り給う処と云われ富士山は神格化されたが、その富士山を真正面に見通す所には必ず旅人の富士山遙拝地としての神の祠がある筈である」と調査の為来山この山の神社を見て満足して帰って行ったことがあった。
(看板資料より)

 



2005年12月18日

 

足柄城址
創築者・年代は不明であるが、、平安末期頃から戦略上の要地として何度か軍事的な施設が設けられた形跡がある。
城郭としては小田原後北条氏の属城で、数ヶ所の曲輪と土塁、井戸跡、倉屋敷跡、数地点に砦(矢倉)等があり、天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原攻めの後、廃城となった。
(看板資料より)

二の郭

一の郭


この池は、底知らずの池又は雨乞い池と云われ、底は小田原に通じて居るとも云われて居り、又干ばつ続きの折には、池の水をかきまわし雨乞いをすれば必ず雨が降り、それこそ干天の慈雨とされたと云われ干日続きには遠近の村人達が雨乞いに来たものです。池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫玉手姫から付けられたものですが、もともとこの池があったものか又足柄城の本丸井戸跡か、そのいずれかと思われますが井戸の大きさと池の大きさがやや一致するぐらいの面積であることは、史実と伝説の関連か非常に興味深く思えるではないでしょうか?
(看板資料より)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→