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愛知県豊田市

足助城

2014年03月22日

足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です。真弓山は足助の町並みを眼下に見下ろす要害の地です。
足助城は、「真弓山城」とも呼びますが、「松山城」「足助松山の城」とも呼んだようです。鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助七城)」の一つとも伝えられますが、今回の発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられます。
なお、足助城は元亀2(1571)年、武田信玄に攻略され、天正元(1573)年まで、武田方の城代が在番しました。

鈴木氏は戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた一族です。そのうち、足助の鈴木氏は、忠親→重政→重直→信重→康重と5代続き、初代忠親は15世紀後半の人といわれます。
16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、永禄7(1564)年以降は、松平氏にもとで、高天神城の戦いなどに武勲をあげます。そして天正18(1590)年康重のときに徳川家康の関東入国に従って、足助城を去りますが、間もなく家康から離れ浪人となりました。
なお、飯盛城の居館(現香積寺付近)なども、鈴木氏が使用したと思われますがよく分かっていません。
(看板資料より)


南の丸腰曲輪

西南の谷間を監視する曲輪だったのでしょうか。小さな建物があったようですが、よく分かりません。
(看板資料より)


井戸

足助には、山の斜面からの湧き水を留めるために作った井戸もありました。深い堀り抜き井戸のようにツルベを使うのではなく、大きな柄杓で汲みました。
(看板資料より)


西の丸腰曲輪

この曲輪の先端部分は、掻き上げた土で固められています。小さな建物があったようですが、よく分かりません。
(看板資料より)


西の丸

足助の町を見下ろすとともに、岡崎・名古屋への街道が眺められます。2棟以上の建物があったことがわかっています。
(看板資料より)


西物見台

この物見台は、大きな岩盤の上にあります。2.7×5.4mの矢倉は、掘っ建て柱の建物です。2層にしたのは、間近まで他の建物が建てられたためでしょう。
(看板資料より) 

西の丸と西物見台
西の丸には、2棟以上の建物があったことが、発掘調査でわかりました。この建物は、柵列近くまで、敷地をいっぱいに利用したものです。
西物見台の矢倉は、文字通り矢の倉(倉庫)で、弓・矢などの武器を入れておき、敵を防ぐために作られたものです。矢倉からは名古屋・岡崎への街道を望むことができ、西方向の見張りも兼ねたものでしょう。なお、矢倉は、大きな岩盤の上に、穴を掘って建てられています。
(看板資料より)


本丸腰曲輪

西の丸と南の丸を結ぶ通路にある小さな曲輪です。建物の礎石が見つかりましたが、足助城で礎石を使った建物跡はこの曲輪だけです。
(看板資料より)


はねあげ戸

西の丸や南の丸の門についているこのような扉を、「はねあげ戸」といいます。鎌倉時代から室町時代の生活が描かれている「一遍上人絵巻」などに数多くみうけられるものです

(看板資料より)


南の丸

この曲輪は、角ばった扇形に造られています。台所の役割をもつ曲輪で、復元した建物跡の他に、カマドに使われた石や炭などがみつかっています。
(看板資料より)


カマド小屋

ここには、焼けた石が並んでいて、周辺に木じり(燃えかけの木)や炭・灰が散乱していました。炊事などに使われたカマドがあったと思われます(小屋・カマドとも推定して復元)。
(看板資料より)


南物見台

矢倉の上から、南方に鶏足城を望むことができます。鶏足城への連絡を兼ねた矢倉だったのでしょう。
(看板資料より) 


本丸

足助城の中心である本丸は、足助の町並みを眼下に見下ろすとともに、信州と美濃への街道、岡崎・名古屋への街道を望むことができます。発掘調査に基づき掘っ建て柱の高櫓と長屋が復元されました。高櫓は、江戸時代の天守閣にあたるものです。
(看板資料より)


本丸腰曲輪

美濃の東部への街道を、正面に望むことができます。
(看板資料より)


北腰曲輪

信州への街道を、正面に望むことができます。台形の建物跡がみつかりました。
(看板資料より)

 



2003年10月11日


足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です。真弓山は足助の町並みを眼下に見下ろす要害の地です。
足助城は、「真弓山城」とも呼びますが、「松山城」「足助松山の城」とも呼んだようです。鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助七城)」の一つとも伝えられますが、今回の発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられます。
なお、足助城は元亀2(1571)年、武田信玄に攻略され、天正元(1573)年まで、武田方の城代が在番しました。


鈴木氏は戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた一族です。そのうち、足助の鈴木氏は、忠親→重政→重直→信重→康重と5代続き、初代忠親は15世紀後半の人といわれます。
16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、永禄7(1564)年以降は、松平氏にもとで、高天神城の戦いなどに武勲をあげます。そして天正18(1590)年康重のときに徳川家康の関東入国に従って、足助城を去りますが、間もなく家康から離れ浪人となりました。
なお、飯盛城の居館(現香積寺付近)なども、鈴木氏が使用したと思われますがよく分かっていません。
(看板資料より)


堀切

足助城の中心施設と、南の山上に伸びる施設を区切る役割をもった堀です。堀の底を通路としても使っていました。
(看板資料より)


南の丸腰曲輪

西南の谷間を監視する曲輪だったのでしょうか。小さな建物があったようですが、よく分かりません。
(看板資料より)


井戸

足助には、山の斜面からの湧き水を留めるために作った井戸もありました。深い堀り抜き井戸のようにツルベを使うのではなく、大きな柄杓で汲みました。
(看板資料より)


西の丸腰曲輪

この曲輪の先端部分は、掻き上げた土で固められています。小さな建物があったようですが、よく分かりません。
(看板資料より)


西の丸

足助の町を見下ろすとともに、岡崎・名古屋への街道が眺められます。2棟以上の建物があったことがわかっています。
(看板資料より)

 


西物見台


この物見台は、大きな岩盤の上にあります。2.7×5.4mの矢倉は、掘っ建て柱の建物です。2層にしたのは、間近まで他の建物が建てられたためでしょう。
(看板資料より)

西の丸と西物見台
西の丸には、2棟以上の建物があったことが、発掘調査でわかりました。この建物は、柵列近くまで、敷地をいっぱいに利用したものです。
西物見台の矢倉は、文字通り矢の倉(倉庫)で、弓・矢などの武器を入れておき、敵を防ぐために作られたものです。矢倉からは名古屋・岡崎への街道を望むことができ、西方向の見張りも兼ねたものでしょう。なお、矢倉は、大きな岩盤の上に、穴を掘って建てられています。
(看板資料より)


はねあげ戸


西の丸や南の丸の門についているこのような扉を、「はねあげ戸」といいます。鎌倉時代から室町時代の生活が描かれている「一遍上人絵巻」などに数多くみうけられるものです。
(看板資料より)


本丸からの景色


足助城の中心である本丸は、足助の町並みを眼下に見下ろすとともに、信州と美濃への街道、岡崎・名古屋への街道を望むことができます。発掘調査に基づき掘っ建て柱の高櫓と長屋が復元されました。高櫓は、江戸時代の天守閣にあたるものです。
(看板資料より)


南物見台


矢倉の上から、南方に鶏足城を望むことができます。鶏足城への連絡を兼ねた矢倉だったのでしょう。
(看板資料より)

 

 
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