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愛知県豊田市

大桑城

2014年03月23日

大桑城は、巴川と大桑川の合流地点南方の高所に築かれた中世の山城です。この城の城主は、大桑村古屋敷の「川合弥十郎」と伝えられます。城主は常には山を降りた平坦な場所に住んでいました。そして戦になるとこの城を拠点に敵と立ち向かうことになります。
この城をめぐる戦が多かったことは「東照軍鑑」の記述にあり、天文19(1550)年、駿河の今川義元に従わない者の中に弥十郎の名が出てきます。また永禄8(1565)年、徳川家康が大沼、田代に出陣したときに、大桑の弥十郎を引き付けて帰陣したとあります。その後、戦は激しさを増し、大桑城は甲斐の武田軍に攻め落とされたといわれています。
(看板資料より)

城の歴史
大桑城は15〜16世紀の戦国時代の城跡です。城主は河合弥十郎と伝えられていますが、詳細な記録はなく当時の大桑村一帯を治めていた豪族であったと推定されます。戦国時代のこの地域は甲斐の武田氏が三河・遠江を侵略して中央進出を目指すための城塞の攻防が繰り返された地域でした。大桑城の興亡についての記録は残されていませんが、織田・徳川・今川・武田といった勢力の攻防にに関係があったことを推定することができます。元亀2(1571)年4月武田勢の25,000旗の軍は足助城をはじめ大沼城や田代城などを攻め落としています。大桑城もこの折の武田勢の侵略の際に落城したものと考えることができます。
(看板資料より)

城の概要
大桑城の主郭は標高約440mで、麓の平地からとの標高差は約40mあります。主郭の平面状は隅丸の三角形で、周囲130m、面積約870uです。主郭を取り巻く土塁・堀切などを含めると約2800uとなります。
大桑城の縄張りは主郭以外にはニの曲輪や三の曲輪などの遺構は認められず、構造的には単純で小規模な山城であったと考えられます。現存する遺構はよく残っており、虎口・土塁・土橋などがみられます。虎口は主郭への入口で主郭の南辺のほぼ中央に位置します。虎口の両側には土塁が主郭の区画に沿って築かれ、幅約2mで延長約26mに及んでいます。虎口から外部への通路は幅約2mの土橋で、その両側は主郭を囲む堀切になっています。堀切は土橋の脇で深さ約5mで端の部分でも約2mあり、底面の幅は4〜8mとなっています。
(看板資料より)

空掘

 
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