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滋賀県近江八幡市

安土城


2017年06月04日

安土城天主台跡

安土城天主台跡
安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10(1582)年6月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここに初めて調査の手が入ったのは昭和15年のことです。厚い堆積に若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在に至っています。
安土城天主は、記録から地上6階、地下1階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことが分かります。これ以降全国に建てられる高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。
皆様が立っておられる場所は地下1階部分ですが、天主台の広さはこれよりはるかに大きく二倍半近くありました。現在では石垣上部の崩壊が激しくその規模を目で確かめることができません。
(看板資料より)

安土城
特別史跡安土城跡
安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4(1576)年に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人達が動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。しかしその三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として秀吉の庇護の元で信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。しかし天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後、江戸時代を通じて信長が城内に建てた総見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくこととなります。
安土城跡は大正15(1926)年に史蹟に、昭和27(1952)年に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万uが特別史跡に指定されました。
昭和15・16年に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年〜50年にわたって主郭部の石垣修理が行われました。昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われています。そして平成元年度から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として「特別史跡安土城調査整備事業」が20年計画で行われています。
(看板資料より)

本丸跡
天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台、本丸帯郭、三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。4〜6寸(12〜18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。
礎石の配列状況から、中庭を挟んで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。豊臣秀吉が天正19(1591)年に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復元したのが右の図です。西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い湯束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。
なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられたのでしょうか。「信長公記」には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。


石塁と大手三門
安土城の南口には石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4ヶ所の出入り口が設けられています。通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1ヶ所だけです。織田信長は安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、西桝形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。
東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。石塁は一直線ではなく大手門の所でへの字に屈曲しています。石塁の石は八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾により大半が消失し築城時の高さは不明です。そのため復元にあたっては南側から石塁北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。東平入り虎口は、間口約5.5m奥行き4.2mで、柱を受ける礎石等が残っていないため門の構造は不明です。
石塁の中に詰められている栗石がない部分が約30m(東側石塁の西端に網を張って中の栗石が見えるようにしている部分から西です)あり、この間に大手門があったと思われます。石塁から南に2間分、2.4mの間隔で礎石が2基、礎石抜き取り穴が1基見つかっていますが、石塁の基底石が据えられている面と同じ高さにあり、大手門の柱が石塁より前に2間分飛び出すという特異な形になり規模や構造において不明な点が多くどのような門であったか不明です。
また、虎口や通路に上がる段差がある部分ですが、その多くが後世の開墾で当時の遺構が消滅して、石段であったか木階段であったかを確定することができませんでした。そのため確実に築城時に段があったが材質不明である部分については安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしています。門があったと見られる部分には豆砂利樹脂舗装をして表示しています。また、通路部分は針葉樹の間伐材を使ったウッドチップ樹脂舗装で表示しています。上段の郭の内、土塀があったと推定される個所はウバメガシの生垣にしています。
(看板資料より)

東側石塁北上段郭と虎口
東側石塁東虎口の城内側は、一段高い郭が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣により遮られています。
石塁との間は約6mあります。石垣に沿って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことが分かりました。
この石垣には大手道から東へ約25mの地点に上段郭へ上がる虎口が設けられていました。虎口は間口約5.0m、奥行き約5.5m以上で、石段で上がるようになっています。石段は下段4段、上段3段で中間に奥行き2.5mの踊り場が設けられていました。踊り場には東西側壁寄りに門の袖柱を受ける礎石が残っていました。門の主柱を受ける礎石が残っていないため門の規模は不明ですが、残存する2基の小礎石から薬医門か唐門であったと思われます。
上段郭の内部は江戸時代以降に水田耕作などで開墾されており、築城時の遺構は残念ながら残っていません。しかし虎口の門の形態や郭の広さから伝羽柴秀吉邸上段郭にあるような屋敷であったことが考えられます。
東虎口から入った賓客をこの虎口から上段郭にある建物へ招き入れたと思われます。
石垣には大きな石が等間隔に配置されています。模様のように大石を配置していることから「模様積み」と仮称しました。
このような大石を等間隔に置く石垣の例は、佐賀県肥前名護屋城跡の古田織部陣跡、広島県吉川元春館跡や万徳院跡にあります。
しかし安土城の方が古く、模様積みの初源ではないかと思われます。
(看板資料より)


伝前田利家邸跡

伝前田利家邸跡
ここは、織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固める重要な位置を占めています。急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっています。敷地の西南隅には大手道を防備する隅櫓が建っていたものと思われますが、後世に大きく破壊されたため詳細は不明です。
隅櫓の北には大手道に面して門が建てられていましたが、礎石が失われその形式は分かりません。門を入ったこの場所は桝形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北をL字型に多聞櫓が囲んでいます。北方部分は上段郭から張り出した懸造り構造、東方部分は二階建てとし、その下階には長家門風の門が開いています。この桝形から先は道が三方に分かれます。
右手の道は最下段の郭に通じています。ここには馬三頭を飼うことのできる厩が建っていました。この厩は江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書「匠明」に載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構です。厩の脇を通り抜けると中断郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていました。
正面と左手の石階段は、この屋敷地で最も広い中断郭に上るものです。正面階段は正客のためのもので、左手階段は勝手口として使われたものでしょう。前方と右手を多聞櫓で守られた左手階段の先には、木樋を備えた排水施設があります。多聞櫓下段の右手の門を潜ると、寺の庫裏に似た大きな建物の前に出ます。広い土間の台所と、田の字型に並ぶ四室の遠侍が一体となった建物です。
(看板資料より)

伝前田利家邸跡の虎口
一般に屋敷地の玄関口に当たる部分を城郭用語で「虎口」と言います。伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に桝形の空間を造った「内桝形」と呼ばれるものです。発掘調査の結果、入口は南側の石塁及び門の礎石ともに後世に破壊されていて、その間口は定かではありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。門をくぐると左手には高さおよそ6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。また一段目と二段目も上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え撃つことが出来る櫓台への出撃を容易にしています。正面右手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すために設けられた「蔀の石塁」となっています。入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が蔀の石塁との間の通路を狭くして敵の侵入を難しくしています。このように伝前田利家邸跡の虎口は極めて防御性が高く、近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城築城時にすでに取り入れていたことが分かります。
(看板資料より)


伝羽柴秀吉邸跡

ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んだと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、上下2段に分かれた郭で構成されています。下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことができる大きな厩が建っています。武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。下段郭には厩が1棟あるだけでそれ以外は広場となっています。背面の石垣裾に設けられた幅2m程の石段は上段郭の裏手に通じています。
上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。正面の入口は大手門も面して建てられた高麗門です。その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。門を入ると右手に台所があり、更に進むと主屋の玄関に達します。玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。更にその奥には内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366uあり、この屋敷では最大の規模を持っています。
戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる誠に貴重なものといえます。
(看板資料より)

伝羽柴秀吉邸跡


総見寺(伝徳川家康邸跡)

総見寺跡(伝徳川家康邸跡)



黒金門跡

ここは安土城中枢部への主要な入口の一つである黒金門の跡です。周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると使われている石の大きさに驚かれることでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。
高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要点には、隅櫓・櫓門等で守られた入口が数ヶ所設けられています。この黒金門は城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入口なのです。
安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣の素晴らしさをご鑑賞ください。
平成7〜12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が立ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。
(看板資料より)


二の丸

織田信長公本廟(二の丸内)

二の丸の石垣

二の丸の石垣

二の丸の石垣

二の丸の石垣

天主閣からの景色(琵琶湖)

 
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